思索

山崎弁栄の念仏思想

一、はじめに

山崎弁栄師の宗教思想及びその実践は、存命当時より僧俗に大きな影響を与え、その感化を受けた人々により着実に継承されて現在に至ってる。しかし、現在一般の人々の間でその名前がよく知られているとは言い難い。
 かくいう筆者も、熱烈な念仏行者であるというおぼろげなイメージしか持ち合わせておらず、今回の企画の中で弁栄直筆資料に接することによって、念仏行者という面に加えて、極めてユニークな宗教思想家でもあったことを知った。
 また、多くの豊かな言葉でその思想を具体化していたという点では、例えば空海や道元がそうであるように、弁栄も日本仏教におけるロゴスの人であったのだということを改めて認識し、この近代浄土宗僧侶の存在に刮目した次第である。
 このように、弁栄思想については、全く「初心者」である筆者が、敢えて感想めいた言辞を寄せるのは、没後九十年に当たる今日、必ずしも一般に広く紹介されているわけではない山崎弁栄の展覧会が催されるという、この貴重な機会に、むしろ弁栄の名前を初めて聞いたというような方々にも、一体、山崎弁栄とはどのような宗教家であったのか、その思想は如何なるものであるのか、そしてその今日的意義について、既存のフィルターを通さずに直接考えていただくためのささやかなきっかけになればと思ったからである。既に弁栄上人と熱く渇仰讃歎し、その思想に深く傾倒している方々には無用の長物であるかもしれないことをお断りしておく。

二、不断念仏の実践

かつて三河の浄土宗寺院の資料調査に従事していた頃、調査の合間に交わす住職との何気ない会話の中でしばしば耳にしたのが浄土僧弁栄のことであった。「べんねいさん」と今でも親しく呼ばれるその人は、話の推移から察するに熱烈な念仏行者であるらしい。三河の諸寺院には、彼自身の足跡はもとより、その教えに帰依し、実践した多数の念仏者の逸話が生き生きと語り継がれている。
 さらに弁栄に発する「光明会」は、とにかく文字通り「南無阿弥陀仏」と唱えるのみの「別時念仏」(不断念仏)を数週間にわたって現在でも実践しているのだという。果たしてそのような専修念仏集団がこの世に存在しているのかと、その時は半信半疑で聞いていたのだが、その後、九州や四国に資料調査を試みた折りに、彼の地でも同様に弁栄や光明会のことを聞くに及んで、予想以上に弁栄の教えが全国に広まり実践されていることを実感した。
 そこで、光明会の不断念仏に参加したこともあるという住職にその様子を聞いたところ、数日間にわたって不断念仏を続けると、人によって反応に違いはあるものの、多くはさめざめと涙を流すという。
 不断念仏に限らず、一般に「行」というものは日常生活から隔絶して行われるものであるから、我々が日常の生活の前提、拠り所としているところの様々な情報が遮断されるため、日々の生活の中で我々の心の表面に固着した「自我」の殻が剥がれて、世間的な地位や役割とは関係のない、ただ一個の人間としての裸の自分がむき出しになる。
 特に不断念仏のような、念仏を唱え続けるという、ごく単純な動作の繰り返しにおいては、考えて判断、区別し、より利益の多いものを選択するといった、我々が日常生活の中で常に行っている合理的な、言い換えれば小賢しく卑小な精神活動の働く余地がなくなり、深く行に入れば入るほど、自身の裸の心、存在の真実に否応なく直面し、それを直視せざるを得ない状況に追い込まれてゆく。
 その結果、それまで心の奥底に隠したり、あえて忘却に任せたりしていた、他人には知られたくない、自分でも考えたくない、認めたくないような、自身のそれまでの人生の真実の一コマ一コマが堰を切ったように噴出し、全く素直な気持ちでそれらと向かい合うことにより、初めて心の底からの悔恨・懺悔・感謝の気持ちがわき起こり、とめどなく涙があふれ出て、それによって心の浄化(カタルシス)が果たされる―のであろうと、これはどこまでも筆者が従来想像していた不断念仏が行者に及ぼす精神的作用なのである。
 しかし、今回弁栄関係の資料を参照するに、別時念仏においては、念仏だけを行うのではなく、夜には学習会などが開かれ、その場で弁栄の思想が参加者に伝えられて、参加者はその弁栄思想を心中に想起しつつ翌日の不断念仏に臨むようである。
 よって、単一行為の繰り返しから引き起こされるトランス状態によるカタルシスを期待するというだけの単純なものではなく、弁栄によって提示された独特の念仏思想や世界観を心中で反芻しながら、それらを理屈として理解するのではなく、目の当たりに感得して深く体感する、まさに「三昧」の境地で弁栄思想そのものになってしまうような、深く個人的な念仏体験が実践されていることがわかった。
 このように、弁栄の不断念仏は、思索と実践が車の両輪のごとく連動して初めて実体をもつものであるから、弁栄を単なる不断念仏のカリスマ的人物と見るのは不適当で、まずは残されたテキストを通してその思想を考える必要がある。

三、弁栄の念仏思想の系譜(一)

現在入手できる弁栄の著作としては、財団法人光明修養会から刊行されている『宗祖の皮髄』『人生の帰趣』『無辺光』などがあり、特に田中木叉編『日本の光(弁栄上人伝)』(昭和一一年初刊)は、豊富な逸話と著作の引用を交えて、弁栄の生涯と思想の深化を編年で記述したもので、弁栄の全体像を知るための最も根本的な資料を言えよう。本稿でも弁栄の著述の引用はこれに依り、その頁数を記すこととする。
 また一般に参照が容易なのは、『浄土仏教の思想』第十四巻(一九九二年、講談社)に収められた河波昌氏による「山崎弁栄」であろう(以下『思想』と略称する)。本書は、弁栄の生涯と思想を偏り無く概説するもので、今後の研究の始発となるものである。
 ここでは、『日本の光』及び『思想』を通読して、筆者が感じた疑問や、考えるところをいささか記したいと思う。それは、弁栄の思想が何に影響されて形成されたかという点である。
 およそいかなる独創的な思想家といえども自分以前の思想と全く無関係に自己の思想を形成することは不可能である。とすれば、弁栄の思想も必ずそのよって来るところがあるに違いない。
 ところが、弁栄自身において既に、自分が誰の何から影響を受けた云々というような記述はあまり見られない。自身名前を挙げる先達としては、釈尊の他に、ほとんど唯一法然の名が語られるに過ぎない。しかも、既に指摘されるごとく、弁栄の法然理解は、その主著である『選択本願念仏集』を始めとする教学的著作の分析によるものではなく、法然作と伝承される釈教歌(仏教の教えを和歌に詠んだもの)によるものであり、著述の中に法然の思想を探るというよりも、自身の理想とする法然像を作り上げ、それを語り出しているという感がある。
 よって、弁栄の思想的系譜を明らかにするには、残された弁栄の言葉を読み込んでゆくしかない。以下はあくまでも筆者の考える弁栄の思想的系譜の一端である。
 弁栄はその思想の形成期に、鎌倉期時宗の一遍(一二三九~一二八九)の言葉から影響を受けている、と筆者は考えている。弁栄は明治十五年(一八八二)二十四歳の時、筑波山に二ヶ月間参篭し、「三昧発得(ざんまいほっとく)」したとされるが、その時の境地を示すものとして次の偈文が伝えられている(『日本の光』六〇頁)。

弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
一心専念能所亡 果満覚王独了々

 一句目「阿弥陀の身心は法界に満ちている」とは善導『往生礼讃』中の一句をそのまま用いている。二句目「衆生が仏を念ずれば、仏もまた衆生を念ずる」とは、やはり善導『観経疏』の「衆生憶念仏者、仏亦憶念衆生」と全く同意である。衆生(我々)が仏を念じている時、仏もまた我々のこと念じているという考え方で、次の三句目と密接に関わる。
 三句目「一心に専念すれば能所亡ぶ」の「能所」とは能機(働きかけるもの)と所機(働きかけられるもの)であり、例えば仏に手を合わせて何事かを祈る衆生は能帰であり、祈られる仏は所帰であると言える。一心に念仏する時、そうした衆生と仏との区別がなくなるというのである。
 こうした考え方は、一遍の言葉にしばしば見られるものである。

念仏とは、念仏即往生なり。南無とは能帰の心、阿弥陀仏とは所帰の行、心行相応する一念を往生といふ。(岩波文庫版『一遍上人語録』三九頁)
回向心とは、自力我執の時の諸善と、名号所具の諸善と一味和合するとき、能帰所帰一体と成て、南無阿弥陀仏とあらはるゝなり。(同語録七三頁)
我執の迷情をけづりて、能帰所帰一体にして、生死本無なるすがたを、六字の南無阿弥陀仏と成就せり(同語録八一頁)

 一遍は「南無阿弥陀仏」という「念仏」の中に、衆生と仏とが融合しており、彼我の区別はなくなると考えるのであるが、こうした念仏観は、所謂「絶対他力」思想の極まったものであり、これは一遍がその学統に連なる浄土宗西山流(法然の弟子証空に発する念仏門流)の念仏思想であり、更に詳しくみれば、九州において一遍と同時期に聖達について就学した深草義の顕意道教(一二三八~一三〇四)の念仏観と同じものであった。その点については日本の民芸運動の主唱者であり、念仏思想にも深く傾倒した柳宗悦の『南無阿弥陀仏』(岩波文庫所収)を参照されたい。
 弁栄は筑波山に籠もる前年、明治十四年の四月から十一月まで、浅草日輪寺の卍山実弁から『原人論』や『起信論』の講義を受けたとされるが(『日本の光』五二頁)、同寺は江戸期有数の時宗の学寮であり、ここで一遍の念仏思想を摂取した可能性が充分考え得る。
 よって、偈文の最後の四句目「果満覚王が独り了了と現れる」の「果満覚王」については、一遍の念仏観に忠実に解釈すれば、これは「南無阿弥陀仏」という名号そのものになる。しかし、恐らく弁栄の意図はそうではなく、「宇宙を包含する法界身なる阿弥陀仏」(『思想』二一〇頁)と解釈されているように、文字・声としての名号ではなく、やはり金色の阿弥陀仏の姿を感得したと考えたい。今回も出陳されている「三昧仏」と名付けられた仏画―説法印を結んだ阿弥陀如来の上半身が雲の上に大きく出現する図像―は、この時に弁栄が感得した図像であると思われる。
 弁栄は、一遍の念仏観を知って臨んだ筑波山参篭において、自己と仏が一体となるような法悦を味わったと思われるが、そこにはただぽっかりと名号のみが残されるというような、一遍の徹底した彼我の消滅感覚の方向へは進まず、自己をも包括する大きな真理としての阿弥陀如来顕現のイメージを心中に抱いたようである。この宗教体験によって、弁栄は知行兼ね備えた真の宗教者として活動を開始することになる。

四、弁栄の念仏思想の系譜(二)

 筑波山での参篭を弁栄の一度目の「廻心(えしん)」(重要な宗教体験による思想の変化)とするならば、二度目の「廻心」は、明治三十三年(一九〇〇)四二歳のおり、愛知県巡錫中に肺炎を患い、新川法城寺(現愛知県碧南市)で療養した時であった、と筆者は考える。
 筑波山以来およそ二十年の星霜中、弁栄は寺院建立や学校建設のための資金を勧募すべく各地を精力的に巡錫し、また三十七歳の明治二十八年一月、仏蹟参拝のために印度を訪れ、ブダガヤに参詣したことは、弁栄の釈迦信仰に少なからぬ影響を与えたはずである。
 そうした経験を蓄積し、日夜、化他行に明け暮れる弁栄は、数ヶ月に及んだという療養生活も、むしろこれを奇貨として、新たな法門を思索する貴重な時間と考えたようである。この時、弁栄が構想した法門こそ、弁栄教学の根本となる「光明主義」であった。
 阿弥陀如来には無量寿仏(極まりなき命の仏)と無量光仏(極まりなき光の仏)という二つの異名がある。この内の後者、極まりなき光について、法然が定めた専修念仏の依拠経典である「浄土三部経」の一つ『無量寿経』(通称「大経」)には、無量寿仏の放つ光明が諸仏に優れていることを述べ、その光はあらゆる世界を照らすと述べる、所謂「光明歎徳章」と従来称されてきた章段がある(後に弁栄はこの段を独立させ小経本としている。展示資料)。
 この章段には、無量寿仏の異名として、その放つ光明に由来する、無量光仏以下超日月光仏に至る十二の名称が挙げられている。さらに、この光明の働きとして、これに照らされる衆生は、三毒の煩悩が消滅し、心と体が柔らかくなり、喜びの気持ちで体が踊りはね、善なる心が生じるという。また、三悪道に堕した人々もこの光明を見れば安息を得て死して後皆解脱すると記されている。
 弁栄はまさにこの章段に着目して、阿弥陀如来の光明(弁栄はこれを「霊光」ともいう)に照らされた人々の身心が「霊化」され、清らかになり、各自の「霊性」が開発(かいほつ)されて「相互真実親愛」の社会が実現する、といった法門(光明主義)を構築した。
 弁栄が特にこの時期「十二光」に注目して取り上げるに至ったその具体的な経緯については、弁栄自身は特定の理由を明らかにはしていないようである。この『無量寿経』「光明歎徳章」は、古来諸家の注目するところでもあるから、智徳兼備の弁栄が敢えてこれを重視したとて、ことさら異とするには及ばないのであるが、しかし、弁栄が十二光を取り上げた直接的な思想背景として、『思想』には指摘されていない二つの要因を提起したいと思う。
 一つは、「十二光」については、やはり時宗の一遍が既に注目していたということである。各地を遊行して念仏を勧める一遍は、寺に定住する僧侶と違い、その持ち物も必要最小限に限らなければならなかった。彼は弟子の持つ道具を十二品に定め、引入(飯を盛る椀鉢)に始まり頭巾に至る十二品に、「光明歎徳章」の十二光をそれぞれ配当し、これを「道具秘釈」と名付け、その末尾に次のような言葉を記している(岩波文庫版『一遍上人語録』二八頁)。

本願の名号の中に、衆生の信徳あり。衆生の信心の上に、十二光の徳を顕はす。他力不思議にして、凡夫は思量し難し。仰いで弥陀の名を唱へて、十二光の益を蒙るべし。

 末尾の「仰いで念仏し十二光の利益に預かれ」とは、まさに先に挙げた弁栄の光明主義に他ならない。弁栄が十二光に注目するにあたっては、若き日、浅草日輪寺で接したであろうところの、一遍の言葉と思想の影響が脈々と響いているのではないかと思われる。もう一つ、弁栄が十二光を取り上げた要因として、『旧約聖書』冒頭の次の著名な言葉が挙げられてよいだろう。

  神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(『創世記』一章三節、新共同訳)

 弁栄の新川法城寺における二度目の「廻心」、即ち「光明主義」への転換の最大の眼目は、伝統的浄土仏教を如何にして世界宗教へと普遍化させるかという点にあった、と筆者は考える。
 明治維新以後およそ半世紀が経過し、西欧の文化が怒濤のごとく日本に流入する中で、宗教者がまず直面したのは、緻密に構築された西洋の科学思想とキリスト教思想に対して、どのように対応するかということであった。
 仏教者の多くはそれら外来思想に耳を塞ぎ、旧態依然たる法務活動を続けていたが、心あるものは、それぞれの立場から、西洋思想と対峙し、何らかの形でそれを日本の仏教に応用しようとした。或者は文献学に、或者は哲学に、或者は自然科学に、それぞれの立脚点を求め、そこから仏教を照射して隠された思想を再発見し、新たな価値を創出しようとした。
 合理精神の発露でありすべてを明らかにせねば気が済まない科学思想にとって、残された最大の不可思議は、「宇宙」であろう。唯一の創造者の存在を絶対の牙城とするキリスト教にとって、決して譲れないのは一神教的「神」の存在であろう。弁栄にとっての課題は、従来の浄土教思想を使って、これら厳然と屹立する西洋の「宇宙」と「神」を、どのようにして大乗仏教の枠内に包括するのかという点にあった。
 「極楽浄土」と「天国」との気分的近似などから、表面的にはその類似性がしばしば言及される浄土教とキリスト教であるが、教義からたぐってゆけば、およそ融合できるものではないことが明白である。
 そこで弁栄が着目したのが、前述のごとく『旧約聖書』の冒頭から述べられる「光」であった。神の存在が光として表現されるものであれば、それは、そのまま阿弥陀如来の十二の光明に重ね合わせて理解することができる。「光」を回路として唯一絶対の「神」と永遠の法身仏たる阿弥陀如来とが一体となる。
 さらに、この唯一の「神」の存在はキリスト教においては絶対の真理であり、キリスト教徒にとっては容易に「宇宙」の真理に転化しうる存在でもある。一方、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたり時空を超えて遍在する法身仏たる阿弥陀如来もまた、ダルマ(真理の法)が顕現したものであるから、やはりこれも「宇宙」の真理と言い換えることができる。
 こうして、「光」や「真理」を媒体とした、神=宇宙=阿弥陀如来というアナロジーが成立する。弁栄はその書簡の中で、「宇宙の真理は悉く十二光によりて示せり」(『思想』二三六頁)と言っている。
 このように、「十二光」への注目は、念仏信仰を世界宗教へと転換させるための重要な要諦であって、その萌芽が新川法城寺での療養中に見られたことは興味深い。『日本の光』(昭和一一年)には、この時の滞在について次のように述べている。

この時に心月一層の輝きを増し、いかにせば多年心中証得の如来光明を時機相応の法門に建立して、広く一切衆生を済度せんかとの「五劫思惟」の境界でもあったろう。

 この「如来光明を時機相応の法門に建立」する思考のプロセスこそ、上記のもののごとくであったろうと筆者は推測している。
 今回出陳される資料は、すべてこの法城寺(碧南市天王町)に残された弁栄の多数の遺墨の一部であり、弁栄の大きな思想的転換となった光明主義の確立へ向けての苦闘の実態を如実に示すものが多い。例えば、資料番号4の「一神教、汎神教」に見られる「汎神教的一神教」といった、それ自体矛盾する用語の創作からは、弁栄苦心の思索の跡が生々しくうかがえるし、資料番号11の「十二光図」には十二光の特性が緻密に記されており、この段階で既に十二光思想が完成の域に達していたであろうことを示している。

五、弁栄の「神秘主義」―霊性と霊光と―

 弁栄の言葉には、「霊」を使ったものが甚だ多い。例えば資料番号8「ここから闇夜の」の中から選んでみると、たちどころに「霊化」「霊光」「心霊」「霊知」「霊能」などの言葉が出てくる。また、今回出陳の資料には使われていないようだが、「霊性」「霊我」「霊界」などという言葉も頻りに使用する。これぐらい「霊」を好んで口にする仏教者は珍しく、やはりそのよって来るところが気になる。
 「光明主義」確立以降の弁栄の言説には、キリスト教的用語と思われる言葉も目立って使われる。「神聖」「正義」(以上資料1)、「恩寵」「讃頌」(以上資料8)などは、伝統仏教ではまず使われない言葉で、前二者は聖書の日本語訳にもあることから、キリスト教的用語と考えてよいだろう。「天地万物の源なる真理の父よ」(資料9)というような阿弥陀如来に対する呼び掛けの言い回しも、やはり伝統仏教では見られないもので、これも「天にまします我らが神よ」というようなキリスト教的言葉と類似している。
 よって、弁栄が多用する霊に関する言葉についても、キリスト教と何らかのつながりがあるのではないかとの予想のもとに調べてみたところ、驚いたことに、前記した「霊」を含む熟語は一つも聖書(新共同訳・口語訳ともに)に使われていないことがわかった。
 さらに手元の『日本キリスト教大事典』(一九八八年、教文館)を見ても、前記「霊」の熟語は全く立項されていない。キリスト教には「聖霊」という重要な事象があるが、しかし、それ以外で特に「霊」を強調するような面は見られず、むしろ、イエズス会創始者イグナチウス・ロヨラの著作が『霊操』と名付けられているように、個々の信仰者による神秘体験について「霊」を使った表現が使われているようである。
 それなら、弁栄の使う「霊」の熟語の典拠は何か。例えば「霊性」なる言葉は、後に鈴木大拙が『日本的霊性』と銘打って使用したことでも知られるが、その典拠は特に明らかになっていない。今回本稿を草するにあたって調べたところ、「霊性」は実は仏典に使用された言葉であることがわかった。
 九世紀前半中国の宗密による『原人論』には、「謂初唯一誠霊性。不生不滅。不増不減。不変不易。衆生無始迷睡不自覚知。由隠覆故名如来蔵。」とあり(大正蔵四五巻七一〇頁中段)、「霊性」を衆生の仏性である「如来蔵」と同義で用いており、これは弁栄の使う「霊性」の語義とほぼ同一である。
 『原人論』は明治期以降、一種の仏教入門書としても利用されたようで、各種注釈書も多数刊行されており、弁栄自身も二十三歳の時、浅草日輪寺で受講していることから(『思想』二〇五頁)、弁栄の使う「霊性」は『原人論』に由来するものと考えてよいだろう。
 「霊光」という言葉も、実はキリスト教とは特に関係なく、意外にも『夢想国師語録』『鹽山拔隊和尚語録』『絶海和尚語録』といった、日本中世の禅宗の語録に頻出する言葉なのである。弁栄は阿弥陀如来の霊光に照らされることにより衆生の隠された霊性が発現すると考えていたが、実はこの中に弁栄流の釈迦信仰が隠されていると筆者は考える。
 『大般涅槃経』に「一切衆生悉有仏性」とあるように、大乗仏教においては、すべての人々の中に、仏に成る種(仏種)が蔵されていると考える(如来蔵)。この種が様々な修行を通して悟り(菩提)を求める過程で発芽(開発)し、人は仏と成る。所謂「念ずれば花開く」とはこのことで、逆に念じなければ、花は開かないのである。
 一般の大乗仏教では、成仏するための修行として、菩薩の六波羅蜜など、様々な行為があるが、弁栄の光明主義では、「大宇宙の真理」(阿弥陀如来)の「霊光」(光明)に照らされることによって、各自の「霊性」(仏性)が開発する。その「霊光」に照らされるための手段が、念仏により三昧の境地に入ることなのである。そして「霊光」に照らされ本来の「霊我」に目覚めた行者は、宇宙の真理と一体になって、この世に浄土を実現すべく努力するのである。
 つまり、衆生の持つ仏性(弁栄の所謂「霊性」)の覚醒を目指すという点では、一般の大乗経典の所説と同じで、釈迦如来の教え(釈迦教)ということになる。弁栄の独特なる点は、他の経典が説くような様々な修行は取り上げず、不断念仏による念仏三昧によって感得された阿弥陀如来の光明(弁栄の所謂「霊光」)により仏性が開発されるというもので、これは法然以来の専修念仏信仰には見られない、釈迦教と阿弥陀の教え(弥陀教)を巧みに融合したものである。
 弁栄の思想においては、あくまでも個々人が念仏を求道的に実践し、阿弥陀如来の光明の感得をはかるといった、机上の理屈や慣習の反復とは全く無縁の、行者個人のいわば「神秘体験」が最重要視されるのであり、お他力によって、誰もが阿弥陀如来の光明に照らされているから安心せよといった、従来から続く惰性的で無気力なルーチンワークとしての他力念仏信仰とは一線を画するために、あえて「霊」という冥顕の境界を暗示するような言葉を用いて、従来の念仏思想から自己の思想を差別化したものと思われる。

六、おわりに―弁栄という人―

 弁栄は、何よりもその生涯を通して、栄耀栄華・私利私欲とは無縁の、高潔なる念仏行者であったが故に、人々からの熱い信仰を勝ちえた、と筆者は考える。
 しかし、人々を魅了したのは、弁栄が単に念仏の実践者であったというだけではない。彼はその念仏行を通して感得した宗教的真実を、ある時は生き生きとした言葉で語り記し、ある時は明確な図像を描いて人々に示した。
 それによって念仏者は、念仏行を通して積極的に目指すべき境地を明確に知り、はっきりとした目標を持って念仏行にいそしむことができた。それは、死して後、往生を待つといった、「人任せで無責任」という意味での「他力本願」的で消極的な念仏信仰とは全く様相を異にする念仏であった。
 一方で弁栄は、積極的に西洋の宗教や哲学思想を咀嚼して、浄土念仏信仰という東アジアの地方信仰を汎世界的宗教へと普遍化させるべく思索を深めて大系化し、速やかに実践していった。残された遺墨の文章を見ると、各地を巡る多忙な念仏生活の中で、いったいどこにその時間があったのか、と疑いたくなるほどに、キリスト教関係、哲学関係、社会学関係の本を精力的に読破していた様子がうかがえる。
 宇宙の真理の霊光により自己の霊性が目覚め、霊能が発揮されるといったビジョンは、従来の浄土念仏信仰とは、明らかに面目を一新したものであり、むしろ西洋流の高い教育を受けた人師にとって魅力的であった筈である。
 しかしそれは諸刃の剣でもあった。世界宗教を目指して宗教の普遍化を図れば図るほど、「阿弥陀仏」や「浄土」といった、これまでの念仏信仰の基盤を成していた特定の用語が足手まといになる。
 資料9の結婚の言葉などは、念仏信仰を示すような言葉は全く使われておらず、歓喜光などを仏教用語と知らなければ、およそ仏教僧による文章とは思えないほどである。
 しかし、従来の用語を全く廃するということは、その用語に表象される思想をも廃するということに直結するから、当然、自身の所属する宗派の公式見解たる「教義」に相反することとなる。
 光明主義ではこの現世において霊性を発現し、この娑婆世界を、その本来の姿である浄土に変革するというものであるから、娑婆世界から極楽浄土への往生を標榜する伝統的浄土思想とははっきり異なる(ただし、一遍などの念仏観は、念仏即往生であるから、死後にどこか遠くの浄土へ往くというものではなく、この点、やはり弁栄の思想と類似している)。
 事実、大正三年の「如来光明会趣意書」では、「往生」や「浄土」という言葉は全く見られず、かわりに、「現世を通じて」「現在を通じて」と、光明主義が「現在」において実現されるべきものであることを強調しており、明らかに浄土宗の「教義」とは異なっている。
 ここに弁栄にとっての大きなジレンマがあったと思われるのだが、結果的には彼はそうした矛盾などには全く拘泥していなかったかのごとく、自己の普遍化した仏教思想をやすやすと語りつづけたように見受けられる。筆者はそこに、浄土念仏を「世界宗教」へと脱皮させようとした弁栄の確信を見る。
 念仏三昧を繰り返していた弁栄は、日常生活の中でも、不思議な内証体験があったようだが(『日本の光』二一〇頁)、果たして弁栄という人は、所謂、「霊能者」のごとき人物であったのか。今回出展されている弁栄の仏画を見ると、手本(先行作例)を忠実に丁寧に写す姿勢が顕著であり、自己流の表現で書きとばしたり、あえてデフォルメするといった姿勢は全く見られない。
 そうした几帳面な画風や、米粒に文字を書いたり、両手に筆を持って左右同時に違う和歌を書いたというような作品を見ると、「霊的」というよりはむしろ「緻密」で「器用」な人柄が、筆者には浮かんでくるのである。
 彼の思想もまた、先行する思想や外来の新しい思想をよく学習し、それらを緻密に一体化して再構成したものであった。即ち、大乗仏典での仏性開発の思想、キリスト教における「神」と「光」の関係、『無量寿経』に説く阿弥陀如来の十二光とそれを取り上げた一遍の思想など。
 別時念仏を繰り返すという点では、彼が所属する浄土宗―法然の弟子聖光房弁長(鎮西上人)より発し、念仏を「行」としてとらえる側面(起行派)が強い浄土宗鎮西流―の教えと相応し、「霊性」が発現した後は、大宇宙の真理たる阿弥陀如来と自身が一体になるという点では、「絶対他力」の極まった一遍の思想―それは念仏を行って救われるのではなく既に救われていることを念仏により阿弥陀に感謝する(安心派)という浄土宗西山流や親鸞門流の教え―を取り込んでいる。
 まことに興味深いのは、我々は既に救われている(往生は決定(けつじょう)している)から、どんな悪行を積み重ねても問題ない(悪無碍、本願ぼこり)と考えたり、少しでも衆生が努力することは「自力」根性が残っているから救われない―例えば、大声で念仏するのはよくないとか、肉食妻帯の僧侶が髪を剃るのは偽善的自力行であるというような、現在でも一部でとなえられている主張、それらは無気力・無自覚・無反省な消極的念仏へと繋がり、最終的には念仏などは結局無用なものであるという認識に人を導くであろう―などの、「絶対他力」思想がしばしば堕しやすい陥穽を、「絶対他力」の極まったものをまるごと取り込むことによって逆に克服してしまうという―阿弥陀との一体化は念仏三昧を通して実現される―なんとも二律背反的な離れ業を、弁栄が光明主義によって達成している点である。
 弁栄の光明主義は、釈迦教と弥陀教、起行派と安心派といった念仏をめぐる対立義(実は本来表裏一体のものなのだが)を新たに融合止揚する思想であったと言えよう。
 後に鈴木大拙は『日本的霊性』(昭和十九年)において、近世親鸞門流の素朴な市井の念仏者(「妙好人」と呼ばれる)の言葉の中に、仏と我という彼我の対立を超越した念仏思想―本稿でいう「絶対他力」の極まったもの―を見いだし、これこそが「日本的霊性」であると大きく宣揚した。妙好人の歌とは例えば次のようなものである。

なむ仏は、さいち(才一)が仏で、さいちなり。さいちがさとりを開く、なむぶつ。これをもろ(貰う)たが、なむあみだぶつ(岩波文庫版『日本的霊性』二三二頁)。

 この妙好人才一の歌について大拙は、「彼の歌は(中略)、『安心決定鈔』か『一遍上人語録』でも読むようである」と評している(同書二三五頁)。『安心決定鈔』とは親鸞門流蓮如の愛読書として知られ、今日では浄土宗西山流の著述であることが明らかになっている。『一遍上人語録』の思想については、先に掲げたごとくである。
 大拙が「日本的霊性」であると精選した思想は、弁栄が浅草日輪寺で接した一遍の思想からくみ取った「絶対他力」思想の極まったものと同じであった。一方、両者とも「霊性」という言葉を使いながら、大拙は「絶対他力」思想を意図し、弁栄は従来の「仏性」「如来蔵」に代替する言葉として使用している点、全く異なっている。
 今にして思えば、弁栄は人間の手に念仏を取り戻したのであった。「絶対他力」と言えば聞こえはいいが、その実態は、念仏もせず、経典も読まず、仏教を学ぼうともしない僧俗を増やしたという本末転倒した側面もある。
 弁栄は、主体的な念仏の持つ価値を人々に気付かせ、念仏のちから、「念仏力」を実感させるべく、別時念仏の指導に各地を奔走したのである。社会をよりよきものにするためには個々人の主体的覚醒しかないのだという弁栄の強い思いを感じる。
 弁栄は六十歳の時、時宗本山である当麻無量光寺に住職として入山した以外は、浄土宗寺院に住持したことはなく、各地の熱烈なる僧俗の支持者のもとを巡っては、念仏三昧会を指導して六十二歳の生涯を終えた。生涯唯一の住山が時宗本山であったことは、本稿で取り上げた弁栄と一遍との思想的繋がりを考えれば、単なる偶然ではない、必然的で意義深い出来事であった。

(湯谷祐三)