山崎弁栄記念館概要

開館にあたり

 

混迷が深まるとき、真実を告げる者は、かえって忘却の国に閉ざされることがあります。その声は時代をつかさどる為政者に覚醒を迫る痛烈な言葉を投げかけるからです。しかし、世界がその存在を必要としているならば、人間は衆知を募ってその人物を思い出さなくてはなりません。  修道、教学の研究、発展においては近代浄土宗を代表する偉僧。法然によって開かれた真実の伝統と今を再びつなぎとめるため、宗門の異端者として生きることをいとわなかった改革者。また、市井に生きることから決して遊離しない透徹した布教者。仏教に立脚することで、かえって他の宗教、哲学に開かれていった霊性の巨人。こう書いてみても、この人物の断片を伝えることしかできません。 山崎弁栄は多くの書簡を残しています。そこに、私たちは、この人物の声を聞くことが出来ます。また、各地で行った講話論述は、没後その高弟田中木叉によって編纂され十巻を超える書物として残っています。 また、彼は多くの書と画を残しました。それは余技ではなく講話や書簡と同じく、彼の教導の中核をなす営みでした。 宗教者の「コトバ」は、―それは衷心の悲願でもありますが― 必ずしも言語で表現されるとは限りません。彼の書画は、書籍は記録できない、彼が残した「コトバ」です。

山崎弁栄記念館は、2013年8月に開館しました。本年は、山崎弁栄(1959 ~ 1920)が没して93年が過ぎます。彼が開いた光明主義に帰依する人々は別に、彼を知る人は現代では決して多くはありません。今、彼の業績は、彼の「遺言」となっています。遺言は読まれ、それが実行されたときに、その役割を果たしたことになります。山崎弁栄の「コトバ」は、さらに多くの人に読み説かれるのを待っています。

組織

館長 若松英輔

副館長 久松定昭

事務局 長良川画廊

役員

代表理事 若松英輔(文芸批評家、株式会社シナジーカンパニージャパン代表取締役)

代表理事 河波昌(仏教哲学者、光明修養会上首)

評議員 石川乗願(浄土宗法城寺住職)

評議員 金田昭教 (浄土宗浄土寺副住職)

評議員 久松定昭(久松真一記念館館長)

監事  岡田晋(長良川画廊)

山崎弁栄について

その生涯と宗教芸術

 

 山崎弁栄上人(1859~1920)は、日本近代における最高の宗教思想家である。また、みずからの不断の宗教的実践を通じて、その宗教体験の世界は限りなく深められていった。そして、その深奥の宗教体験がそのまま宗教的世界観を創造的に展開していった。まさに上人は近代において活躍した希有ともいえる偉大な宗教的天才であった。
 また上人は、芸術的な才能にもめぐまれ、仏画や書等において無尽に豊かに宗教芸術世界を開いていった。
 山崎弁栄上人は安政6年(1859)2月20日、明治維新に先立つこと丁度10年、下総国(現在の千葉県)手賀沼の畔、鷲野谷(現在は柏市に編入)の一農家に生まれた。幼名は啓之助といった。父の名は嘉平、母はなをであった。  
 父は念仏嘉平といわれるほどに念仏の信仰に徹していた。早朝、かれの念仏の鉦鼓(しょうご)鉦鼓(しょうご)(ふせがね━浄土宗では木魚のほかに鉦鼓をもちいる場合も多い)の音が近隣に鳴り響いていたという。父嘉平は、「(徳川)家康公は陣中でさえ六万遍の念仏を称えたという。この嘉平も月に一日ぐらいは六万遍の念仏をつとめなければ」といって、毎月一回の念仏を休むことはなく、その日は万事を放棄して念仏に専念した。母なをもまた、夫嘉平の信仰の影響を受け、次第に信心が養われ、念仏するようになった。
  上人啓之助は農家の長男として生まれたので、やがて農事に励むことになるのであるが、それでも信仰深い家庭の中にあって、次第に上人の心のうちに宗教心は深められていった。   
 そしてそのような因縁で上人は宗教書に親しむようになり、また、仏画等を書くようになっていった。近くに真言宗の寺があり、そこでの宗教画の習得は後年の上人の宗教的な芸術活動への重要な契機となったことも考えられる。  上人は、十二歳の折、家の杉林に沈んでゆく夕日に三尊(阿弥陀仏と観世音菩薩、勢至菩薩の両脇侍)を拝んで感動し、その歓びを抑えることができなかった経験を後になって語っている。そうした中にあって啓之助の心の中に次第に出家の願いが抑えられようもないほどにまでに高められていった。そして遂にその願いは実現せられてゆくことになるのである。  
 すなわち、父嘉平はかれの菩提寺である浄土宗医王寺住職に啓之助の出家の志を申し出た。その住職はさらにその本寺で徳川家康の創設になる関東十八檀林の名刹の一つ、東漸寺に申し入れ、明治12年(1879)11月、東漸寺第五十世住職大谷大康老師を医王寺に請待して厳粛に上人の剃度式が行われた。そして幼名啓之助は名も弁栄と戒名され、東漸寺に入寺、仏道修行に励むようになった。  
 東漸寺における上人の修行は激烈を極めた。後年、弁栄上人の高弟田中木叉は往時の上人について、
「毎夜、熟睡三時間の外は雑用に、学問に忙しく、貫くに念仏一行昼夜断え間なく・・・」
等と述べている。(「弁栄聖者御略伝」)
 東漸寺での一年余りの修行の後、明治14年(1881、23歳)、正月、上人は歩行で東京に上京し、浄土宗大本山増上寺等で仏教の諸学を学んだ。とりわけ駒込吉祥寺学林では浅草日輪寺(時宗)卍山(かずやま)卍山(かずやま)実弁老師から『華厳五教章』を聴講するのであるが、その内容を単なる学解の分斉にとどめず、その真理の内容をそのまま主体的に実践した。その往時を偲んで上人は、
「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ。身はせわしくなく、事に従うも意(こころ)は暫らくも弥陀を捨てず、道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるを知らず、三千界中、唯だ心眼の前に仏あるのみ。」
の文を書き残している。
吉祥寺宿舎では学徒たちはいたづらに議論を戦わして騒がしいばかりであったが、上人は田端の寺から通学し、その途上も専ら念仏三昧に専念し、その際、「五大皆空唯有識大」(地・水・火・風・空等の一切万物が空になって唯だ心(識)だけの遍満の自証)といった境界が現前し、そこでは、ただ下駄の音のみがあって・・・」といった内容が経験されていたのである。
またその折の状況について、
「予(私)かつて華厳の「法界観門」によって一心法界を修す。行住坐臥に観心止まず。ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く一心法界の中に隠没し、宇宙を尽くして唯だ一大観念のみなるを観ず。
また、一日、道潅山に禅座して、

『文殊般若(経)』をよみ、「心如虚空無所住」(心虚空の如く、住する所なし)の文にいたって、心、虚空法界に周遍して、内に非ず、外に非ず、中間に非ず、法界一相の真理を会(理解)してのち、心、常に法界に一にせるは、これ平常の心念とはなれり。これ即ち宗教の信仰に所謂「光明遍照」中の自己なり、大円鏡中の自己なりと信ず・・・」
等の文がみられるが、それは禅の立場から云って大悟徹底がなされ、いわゆる「法界観」が成就せられていたのである。しかしながらまた他方、上人には念仏三昧の実践が不断になされていた。その修行の内容について、「二十四歳の時に東京駒込の吉祥寺学林において、卍山(かずやま)上人の『(華厳)五経章』の聴講に列(つらな)りし時、田端の東覚寺に寄宿して吉祥寺に通う往復にも、口に称名を唱え、意に専ら弥陀の聖容を想い、もっぱら神(こころ)を凝(こ)らしけるに、一旦、蕩然として昿廓極まりなきを覚え、その時に弥陀の霊相を感じ、慈悲の眸(まなじり)、丹(たん)華(か)の唇等、その霊容を想う時、神心融液にして不可思議なるを感ず」といった文面もみられるのである。それらの体験を通じて、禅浄の対立以前の奥底への踏入が試みられていたのである。

 このように上人は、東京遊学中、仏教学を学び種々の宗教的実践を重ねた。そして、やがて明治15年(1882、24歳)で、筑波山で二ヶ月間にわたる念仏三昧の修行がなされることになった。その折のことを上人は省みての一書簡の中に、次のように書き記している。すなわち、
「二十三四の頃と覚え候。その入山修道せんとの動機は、その頃東京にて『華厳五教章」の講義を聞きて、教相文字上の事はわかりても、仏教の真理は三昧に入りて神(こころ)を凝(こ)らすにあらざるよりは、証入すること能わず。よって暫らく山に入れり。

   常陸国(茨城県)筑波山麓より一里半ばかりが山頂より二丁ばかりの方に、立身石という巖窟あり。此処に在って凡そ一ヶ月、次に場所をかえて一ヶ月、身に纏うところは半素絹、食物は米麦そば粉などにて・・・・」  このようにして、上人は筑波山における、二ヶ月にわたる念仏三昧の実践を通じて大悟徹底していったのであった。この修行中、山上で昼は窟の中で念仏し、夜は巌の上で礼拝した。その折の念仏三昧発得の証悟の内容を上人は偈に表わし、 「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」 (弥陀の身心は法界に遍じ、衆生念仏すれば仏もま(還)た念じたまう。一心に専念して能所(主客)亡ずれば、果満覚王(阿弥陀仏)独り了々たり)。すなわち阿弥陀仏が現前し、その宗教経験の世界が了々として開かれていったことが示されているのである。この体験はその後の上人の宗教活動の原点となっていたことが考えられる。 明治14年正月、上京遊学して二年足らずの短期間ではあったが、以前と比して上人の宗教体験の内容は隔絶するものがあった。この年(明治15年、24歳)11月、東漸寺第五十世静誉上人より浄土宗の宗戒の両脈が相承され、浄土宗の僧としての本格的な宗教活動が開始されることになるのである。 ところで、上人には「一切経」の閲読という年来の願望があった。筑波山を下山してその秋、東漸寺に帰って暫らくして後、明治16年(1882、25五歳)9月より明治18年6月にいたるまで足かけ三年、東漸寺からは三里ほども離れた浄土宗の寺院、宗円寺に籠ってもっぱら「一切経」の拝読に集中した。(宗円寺は埼玉県北葛飾郡吉川町三輪野江の飯島にある小庵である。) 「一切経」については法然上人が五回にもわたって読まれていたことが知られるが、弁栄上人もそれに従うものでもあった。「一切経」とは東アジア文化圏において成立したエンサイクロぺディア(百科全書)そのものであり、その「一切経」を読んだ法然上人にしても、また弁栄上人にしてもかかる点から云ってまさにアンシクロぺディストそのものであった。エンサイクロぺディアとはギリシア語に由来する言葉であり、エン(=イン、内に)サイクロ(円環)パイディア(人間形成)を意味している。「一切経」もまたかかる全円的な知の集積(円環)から一つの文化の体系が展望されてくるのである。それは、法然上人においても、また弁栄上人においても宗教哲学体系の形成に直結に連なってゆくものなのである。すなわち法然上人においては「選択本願」の体系として、そして弁栄上人においては十二光の体系としてである。 かかるアンシクロぺディストの系譜はヨーロッパにおいても展開せられ、フランス革命において近代という一つの新しい世界を実現していったのである。それでも多くのフランスのアンシクロぺデイストたちのそれは雑然とした知の集積にすぎず、それを徹底的に批判してヘーゲルはみずから哲学体系の形成を意図するのであるが(『エンチュクロぺディ』(一八一七))それとても単なる人間的主観のいとなみにすぎず、法然上人においても、また弁栄上人においても大円鏡たる如来智にもとづく広大無辺な宗教哲学体系の展開が考えられるのである。西田幾多郎は最晩年において「無限円」(すなわち円周ないし直径が無限の円)なる概念に到達するのであるが、まさにかかる円の無限性(すなわち仏教的にいえば、円が空であり、空が円となっているところ)に真のエンサイクロぺディアが成立しうるのである。かかる点からいって弁栄上人の「一切経」閲読には真の意味でのアンシクロぺディ(エンサイクロぺディア)、すなわち哲学体系への展望を開いてゆく契機となるものがあった。体系とは一切をみずからの内に包含するものであり、それは「外のない内」であって、かかる包括者(法界身)は阿弥陀仏そのものに他ならず、また、かかる内容をみずからの内から展開した弁栄上人の宗教哲学体系こそが、やがて十二光体系の形成へと結実してゆくのである。それはヘーゲルの哲学体系をも超えるものなのである。弁栄上人の「一切経」閲読にはかかる重要な契機が存していることが考えられるのである。

なお、上人の一切経拝読の間に、師僧大康老師の遷化があったが、その報に接した弁栄上人は、ただちに東漸寺に帰寺して、一百日間の報恩の別時念仏を修している。そしてまた別時を終えて、宗円寺に帰庵して「一切経」は読み終えられた。 明治18年も初冬に入り、上人は東漸寺から下総(千葉県)習志野の五香(現在の松戸市)の地に居を移すことになった。それは、恩師大康老師の果たしえなかった新寺善光寺の建立の志を継いでのことであった。新寺建立のためとはいえ、それとても上人にとって、念仏三昧の実践を離れたことではなかった。すなわちその間も不断に念仏三昧の実践はなされたのである。 建立の寄付はなるべく多数の人の仏縁をむすぶためのものであった。単位を1厘(1銭の10分の1)におき勧募が進められた(一厘講)。また、それと前後して浄土宗本校(現在の大正大学)の設立のためにも募金活動に尽力された。このようにして善光寺本堂は明治24年(1981、32歳)に完成した。 ただ、重要なことはこれら勧募もさることながら、むしろそれらを縁として多くの人たちへの念仏の結縁こそが上人の眼目であった。そして、その際数多くの書画が施され、たとえば経文の細字による仏画等が書かれたりもした。そしてまた、「浄土三部経」で弥陀三尊が、『華厳経』、『法華経』等で、釈尊の涅槃図等が、あるいは、また「一文起請文」をくり返しつつ元祖法然上人像等の数多くの書画が書かれて多くの人たちへの結縁となっていった。 中でも米粒名号は最大の結縁となった。一粒のお米の中に南無阿弥陀仏の名号を書き込み、それを頂いた人たちがその米粒の名号を読み「南無阿弥陀仏」と称えることが何よりの結縁のいとなみとなるという趣旨からである。上人が指にお米をはさまれ、上人自身、南無阿弥陀仏と称えるうちに一粒一粒の米粒名号ができ上がってゆくのである。随侍する三人がその米粒を紙に包んでゆくのであるが、それが間にあわないほどの早さであったという。 またその米粒には騎馬に乗った八幡太郎義家の像が画かれたり、また『般若心経』の経文が書かれたりもした。上人にとって、名号を記入される米粒(ミクロコスモス)は巨大な大宇宙(マクロコスモス)でもあったのである。ルネッサンスの頃、ヨーロッパで活躍したキリスト教の最大の宗教思想家ニコラウス・クザーヌスは、「最小なるものは最大なるものよりも小さくはない」(『知ある無知』(1440))と云っているが、上人においては書画等において、それがおのずと実現せられていたのである。 ところで上人には出家する以前から釈尊への尊敬の念も厚く、出家後はインド仏跡への参拝の念も次第に高まり、その念願もやがて果たされることになった。それに賛同し、援助する人たちの尽力もあり、インド渡航が実現した。すなわち、明治27年(1894、36歳)11月、横浜を出航、翌明治28年2月下旬神戸へ帰国。インドでは、釈尊が正覚されたブダガヤ、ニレンゼン河、また初転法輪の地、そして入涅槃のクシナガラ、また、祇園精舎等と巡られた。帰国後、千体もの釈尊の模像を陶工に依頼して造られ、それを京都各本山や、また多くの有縁の人たちに贈られたのであった。 このような上人のインド仏跡参拝は往時としては希有ともいえる行動であった。そしてそのことは、日本仏教の特色たる宗派仏教、いわゆる宗祖を中心とする祖師仏教の特色から直接釈尊に直結してゆく、新たなる宗教運動の展開の契機となるものでもあった。弁栄上人の場合、どこまでも法然上人に連なりつつも、他方晩年になるにつれ釈尊そのものが限りなくクローズアップされていったのである。後年、展開される弁栄上人の光明主義は何よりも釈尊仏教そのものであった。 一般の人たちにとって救済され往生してゆく極楽世界は最大の関心事でもあった。『阿弥陀経』はその極楽世界を詳述する経典である。しかしながら、法要等において読経する僧侶たちはこの経をただ漢文のまま棒読みするだけで、それに接する一般の人たちは聾桟敷も同然であったのである。そのために上人はこの経を訓読で示し、さらにその極楽の内容をイラストで示したのである。現在、釈尊伝やキリスト教のバイブル等までもが漫画で表示されるようになっているが、弁栄上人は明治の時代も半ばの頃にすでに見事なイラストによる経典の出版を試みているのである。いわゆる『阿弥陀経図絵』がそれである。初版は明治三十年七月に刊行された。それは版を重ね数十万部にまで及んだ。そして、この『図絵』は多くの人たちの信仰のこの上ない糧となっていったのである。 また上人の伝道活動には新しい宗教音楽も積極的に取り入れられていった。上人はオルガンはもとよりアコディオンの名手でもあった。そこにはキリスト教の賛美歌の影響もみられ、そればかりか実に宗教音楽は大乗仏教興起の時代、積極的に展開されていたものである。弁栄上人においても音楽は宗教活動の上に決定的に重要な役割を果たしたのである。 『無量寿経』は光を説く経典でもあるが、またこの経典は音楽経典でもある。そして、そこに展開する極楽世界は光の空間でもあるが、しかしまた、そこは超越的な音楽の鳴り響く空間でもあるのである。たとえばこの経には「正覚の大音、響十方に流る」(上巻)の偈文がみられるのであるが、それは釈尊の正覚がそのまま十方世界に音声となって鳴り響いていることを説いているのである。それは私たち凡夫の耳には聞こえてこないが、三昧の深みにおいて上人に鳴り響いていた音声が、そのまま上人の宗教活動の上にも音楽活動となってはたらいていたことが考えられる。いわゆる、この「天上の音楽」(musica mnndana)は、キリスト教的世界においても豊に展開されているものであった。西洋音楽史上の始祖に位置づけられているピュタゴラス(紀元前六世紀頃の人)も、この天上の音楽を聞いていたことが伝えられているが、実に洋の東西を問わず、超越的な聞こえない音楽の鳴り響きが伝承されているのである。その消息の一端は、たとえば上人の、 「アフリカの山のおくにも聞こゆらむその風の音般若波羅蜜」 といった道詠にもその一端をうかがうことができる。 明治四十五年は元祖法然上人の遠忌に相当していた。九州の浄土宗大本山善導寺(福岡県久留米市)においても記念の法要が厳修され、弁栄上人もその法要に招せられた。そしてこれが機縁になって九州に弁栄上人の結縁は広まっていった。そしてこの九州の地で光明主義が確立せられてゆくのである。 尚、光明主義の成立には、その教理の上からいって『阿弥陀経』中心から『無量寿経』中心の立場の転換が考えられる。この転換はすでに明治三十年代の初期の頃から始まっていたのであるが、その転機の動向は上人の書簡等からもうかがうことができる。 そして今や『無量寿経』の中の「如来光明歎徳章」およびそこで展開される「十二光」が上人の哲学体系に連なってゆくのである。そしてまた、新しい礼拝形式としての従来のものとは雰囲気を異にした『如来光明礼拝(儀)式』が次第に形成されてゆくことになった。それは一浄土宗としての阿弥陀仏に対するレスポンスから、今や仏教もキリスト教も包含した絶対的一神教として阿弥陀仏へのレスポンスへの変革である。そしてそれは十回近くにもわたる改訂を経て現在の『如来光明礼拝儀』が成立した。それは宗派の対立の枠を超えて、全人類にとっての礼拝形式とさえいえるのである。そこには、『新約聖書』に説かれる「山上の説法」や、パウロの宗教体験をも包含して━宗教経験の事実そのものにはもはや東西の区別もない━宇宙そのものの真理としての礼拝文になっているのである。 たとえば上人の『礼拝儀』の中における、「三身即一に在ます如来よ」における「よ」は、いわゆる呼びかけを意味する呼格であるが、そこにはそのまま「天に在ますわれらが父よ」と祈るキリストに自身の祈りにおける「我と汝」の呼応関係が念仏三昧の世界においても展開せられているのである。上人において阿弥陀仏と私たちとの関係が、仏教の世界において改めて「我と汝」(Ich und Du) の関係の躍動が考えられるのである。そこには東西宗教の祈り(三昧)における根源的な出会いを通して新たなる祈りが創造的に展開されているのである。 ところで、そもそもかかる礼拝形式の結晶としての「礼拝儀」ないし「典礼」は実に文化そのものの形成の核をなすものである。そのことはドイツ語の儀礼としてのKult がそのまま文化 Kaltun(culture)に連なっている点からも明瞭である。紀元四世紀頃、ヨーロッパに侵入した未開にして野蛮なゲルマン民族たちは、やがてキリスト教的典礼にふれ、それを通して高度なフランス文明、ドイツ文明等を形成していったのであるが、弁栄上人の『礼拝儀』の形成にも新しい時代の文化の創造にも甚深なる意味が考えられねばならないであろう。 弁栄上人にはその生涯にわたる宗教活動において無数ともいえる仏画や書等による、また新しい宗教音楽等による活動がなされたのであるが、かかる上人の宗教芸術の活動の根底には根源的な「構想力」、ないし「想像力」が考えられる。 たとえば弁栄上人が画かれる阿弥陀仏(三昧仏等)はもちろん上人の心の内から創出されてくるものに相違ない。その点ではヨーロッパの芸術的天才たちの製作してきた絵画や音楽と異なるところはない。しかしながら西欧の芸術の近代化のプロセスにおいていわゆる人間の主観が固定化せられ、いわゆる主観主義に堕するにつれて、近代ヨーロッパ芸術はその根源(神)を喪失し次第に枯渇していったことが考えられるのである。しかしながら上人は常に念仏三昧の中にあったのであり、芸術活動等において主観的な契機が考えられるとしても、上人は常にかかる主観の破られた地平、すなわち芸術活動の無限に湧き出る根源たる阿弥陀仏そのものからその創造活動がいとなまれていたのである。 そのことは上人においてくり返し引用されている『観無量寿経(像想観)』の中の一文、すなわち、 「如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想の中に入る」 の文における「入一切衆生心想」が、実にそこから限りなく創造活動がいとなまれてゆく根源的な契機となっているのである。念仏とは、そして、念仏三昧そのもののいとなみとしての芸術的な創造活動とは、不断の自己脱却に即しつつ念々に根源者(阿弥陀仏=法界身)に直結し、そこからの心想への流入がそのまま人間の創造活動となっているのである。芸術活動とは元来、決して単なる人間の主観のいとなみの次元にとどまるものではなく、かかる主観主義を限りなく超え出てゆくところにいとなまれてゆく行為なのである。三木清も論じた「構想力」の問題も本来的にはかかる宗教的超越的な実践の地平と関わっているのである。弁栄上人の縁にあった多くの人たちもかかる上人の芸術作品に触れることによって、実に阿弥陀仏のはたらきそのものに触れていたのである。そしてそれぞれにみずからの信仰に目覚め、その信仰を深めていったのであった。

 大正5年(1916、58歳)、上人は京都の浄土宗総本山智恩院における高等講習会(夏(げ)安居(あんご))に出講された。講題は「宗祖の皮髄」で、それは宗祖法然上人の道詠を中心に、その信仰の内奥にふれられたのであった。 さらに大正7年(60歳)、一遍上人の伝統を受け継ぐ時宗本山、当痲の無量光寺(現在相模原市)第六十一世法主となられた。ただそれとても念仏を弘通せんとの念願からのことであった。また無量光寺境内に将来の真の宗教家の育成を意図して、「光明学園(現在、相模原光明学園高等学校)を創設された。 上人は晩年、腎臓を病まれるようになっていたが、病身にもかかわらず休む暇もなく伝道活動は続けられたのであった。 そしてその伝道の途上、遂に北越の地、柏崎の極楽寺においてその偉大なる生涯が終えられた。 弁栄上人に師事した田中木叉は上人の『御略伝』の最後を、 「弁栄聖者の御一生は、如来光明さながらの反映に在(まし)在(まし)せば、誰か大慈悲の霊応を仰がざらん。誰か光明の摂化を信ぜざらん。」 の文で結んでいる。

 弁栄上人の出現はまさに新しい時代の真の光の出現を意味するものであった。

      

(河波昌)

思索

山崎弁栄 ―近代はなぜ「霊性」を必要としたのか―

霊性の定義

 1944(昭和19)年、鈴木大拙の『日本的霊性』の刊行を切掛けに、霊性という言葉が江湖に広まったのは事実だが、彼が最初にその言葉を用いたわけではない。昨今、にわかに論じられること多くなったこの術語の歴史と発展の経緯は、未だ十分に論じられていない。
 古くは中世にさかのぼるというが、文字を頼りにそこまで遡っても、霊性の歴史は明らかにはならないだろう。詩の歴史をたどれば和歌に行きつく。宗教の文字が用いられなくても、人間に信仰があるのと同じく、「霊性」という表現を伴わなくても、霊性の実践は古くから行われてきた。私たちが今、接している「霊性」の文字は、中世あるいはそれ以降に用いられた「霊性」ではなく、哲学、芸術、科学、主観、客観という言葉と同じように、明治以降、すなわち日本が他国との接近を迫られて以降の近代に生まれた百数十年の歴史をしか持たない新しい概念に他ならないのである。  言葉は、今の必然にとって生まれる。近代はなぜ「霊性」を必要としたのか。霊性は、精神ではない。殊に日本精神というような言葉は全く関係がないと鈴木大拙はいう。戦争が激化していたとき、「精神」という言葉が政局に付随し、原意から遊離していくのを見て、彼は、強く警鐘をならした。霊性は倫理を超える。それは否定を意味しない。包含し、変容することだとも鈴木大拙は書いている。「霊性を宗教意識と云ってよい。但、宗教と云うと普通一般には誤解を生じ易いのである」、さらに「霊性に目覚めることによって始めて宗教がわかる」ともいった。
 鈴木大拙の思想を読み解こうとするとき、「宗教」の意味を考えることは、「霊性」に同じことを試みるより、ずっと重要だと私は思う。霊性への覚醒によって初めてわかるのが「宗教」だとしたら、彼の眼目が、霊性ではなく宗教にあることは疑いをいれない。  ”To do good thing is my religion"(善いことを行う、それが私の宗教である)と彼が書いた英語の書がある。これが彼の「宗教」の定義である。ここには教義、論争も入る余地がない。鈴木大拙が禅門から禅を開放したことはさらに論じられていい。彼が亡くなったとき、鞄には親鸞『教行信証』の英訳が入っていたという。この人物をいつまでも禅思想家と呼ぶわけにはいかない。
 宗門を超えて活動するという試みは、思想的論究とは別な出来事として、木喰、円空といった遊行僧たちによって実践された。彼らもまた、日本的霊性の担い手だった。全国の村々に眠っていた木喰の仏像とともに、その霊性を蘇らせたのは、柳宗悦である。  民芸の発見者となる以前、神秘哲学を実存的に論じた柳宗悦の業績は再評価さなくてはならない。仏教、儒教、道教、キリスト教、イスラームまでも視野に入れ、東西の神秘思想と神秘家の実相を自らの言葉で、詩的熱情をもって語った人物を彼以降、日本思想史は、二三の例外を除き、持っていないのである。
 柳宗悦は鈴木大拙の弟子である。その関係は生涯変わらなかった。弟子が先に逝去し、継承は実現しなかったが、鈴木大拙の蔵書と研究成果を管理する松ヶ岡文庫後継の約束も相互に了解があった。彼らはともに、「霊」あるいは霊性の場に、宗門、宗旨の彼方へ飛躍する可能性を見出していた。

 今人について尤も注意すべきことは自覚心が強過ぎる事なり。自覚心とは直指人心見性成仏の謂にあらず。霊性の本体を実證せるの謂にあらず。自己と天地と同一体なるを発見せるの謂にあらず。自己と他と截然と区別あるを自覚せるの謂なり。(『断片』)

 夏目漱石の言葉だが、彼もまた霊性に、個を超える何かをとらえている。見性は「霊性の本体」への目覚め、また、それは「自己と天地と同一」である発見につながるというのであろう。鈴木大拙が、霊性を「大地」への復帰として論じたことを思い起こさせる。
 岡倉天心も『茶の本』で“Indian spirituality has been derided as ignorance”、インドの霊性は、これまでも無知として嘲弄され続けてきた、と東洋に対する西洋の変わろうとしない無理解を論じている。さらに『東洋の理想』において、天心は「霊性とは、事物の精髄であり、生命、万物の魂を決定するもの、そして、内に燃える炎として認識された」と書いている。
 霊性(spirituality)という術語を積極的に用いたのはキリスト教界だった。明治プロテスタントに大きな影響力をもった植村正久が1901(明治34)年に『霊性の危機』という著作を出した。無教会を率いた内村鑑三は、1904(明治37年)に「懐疑は難問題を解決し得ない時の智性の困苦(くるしみ)困苦ではない。神を感得(かんとく)感得し得ない時の霊性の苦痛である」(「懐疑」)と書いている。
 カトリックでは、アシジの聖フランシスコの霊性、あるいはフランシスコ会、ドミニコ修道会の、あるいは中世スペインの霊性というように、個人、共同体、文化における求道性を意味した。
 ジャック・マリタンは「霊性の優位」といった。マリタンは二十世紀前半フランスで、大きな影響力をもったカトリックの思想家である。彼がいう「霊性」とはカトリック教会の共同体としての意思のことである。マリタンの発言が政治的な場面だったこともあって、ある時期、フランスおよびヨーロッパでは「霊性」は社会的あるいは政治的存在としての教会の正当性を表現する術語として流布した。マリタンと鈴木大拙、それぞれが意味する「霊性」には大きな隔たりがある。また、『日本的霊性』で彼は自分のいう霊性は「加特力(カトリック)教の僧団型」のそれ、修道会的「霊性」とも異なるとも書いている。  座談会「近代の超克」をはじめ、戦前、カトリシズムを代表し、言論界で発言していた吉満義彦の論考にも「霊性」の表現がある。しかし、その思想を理解する重要な術語、鍵概念というわけではない。
 彼の師、岩下壮一になると、「霊性」の文字はほとんど見ることができない。しかし、「霊的」という文字は頻出し、思想の中核をなす言葉であるのは、吉満義彦の場合も同じである。
 昨今、霊性論がにぎやかなのは、不可視なものへの憧憬とそれを渇望する欲求のためだろう。しかし、「霊性」を論じるなら、まず「霊」を考えなくてはならない。主体から遊離して、その「性」を巡る言葉を重ねるのは、画像の生物を見て、その実態を語るのに似ている。
 夏目漱石、岡倉天心の文章からも、彼らに「霊」の実存的体験があり、その上で霊性の文字を用いていることは伝わってくる。そうでなければ岡倉天心のように、霊性を炎として表現することは起こり得ないだろう。もちろん、ここでいう「霊」は霊魂を意味しない。あるいは今にち用いられる「心霊」とも関係がない。
 「霊性」とは、「霊性そのものは超個己底であるが、それは個己の上に直覚せられるとき、本当に絶対なのである」と鈴木大拙がいう。個は、あるとき、個を超えて、「超個」として世界に現れるというのである。そこは、文化、民族、伝統、民俗が共時的に交差する場となる。また、聖性の座、個の求道性、そして共同体の霊的発展の基盤を意味する。聖性も霊性と同じく、キリスト教の術語ではない。聖性なき霊性はありえない。霊は、その根柢において聖なるものである。
 霊性論における鈴木大拙の最も大きな功績は「霊性」を共時的構造、すなわち超時間的実在として力動的に論じたところにある。「共時」とは、物理的時間軸を超越した「時」の流れ。永遠の今を基点に、過去・未来を「今」として、とらえる視座であり、存在点。彼がこれを認識していなかったとしたら、法然と親鸞を一人格として論じる、という着想は生まれない。
 しかし、これまで論じた人々に先んじて、「霊」あるいは「霊性」を中核に据え、体系的思想を築いた人物がいる。山崎弁栄である。
「霊」、「霊性」あるいは聖性とそれに連環する言葉が論じられる頻度も深さにおいても、霊の実相を高次な論理によって展開する透徹した実践者としても、山崎弁栄は日本思想史において類例を見ない。浄土門の僧だったが、五十五歳のとき、自らの宗門、光明主義を樹立した。
 空海、最澄はもちろん、鎌倉仏教の宗祖たちがそれぞれの宗旨、教学史においてだけでなく、思想史においても論じられるべき対象であることを、私たちが発見、実践したのは、近代、それも本格的には戦後のことである。山崎弁栄は未だ思想史に現れていないのは、当然であるのかもしれない。宗門としての光明主義は今も、活発に続けられている。設立に彼が奔走した光明学園相模原高等学校も存続している。
 山崎弁栄が広く注目を集めた時期がある。数学者岡潔が山崎弁栄にふれたエッセイをたびたび書いた。岡潔は、高瀬正仁による詳細な評伝も書かれ、今日再評価されつつある「世界的な」という表現が文字通り当てはまる近代数学界の巨人である。彼は熱心な光明主義の帰依者だった。小林秀雄が岡潔の文章に触れたことが切掛けとなって実現した、二人の対談『人間の建設』はベストセラーになった。岡潔が読むことを強く勧めたのは、高弟田中木叉による山崎弁栄の評伝『日本の光』である。
 今にち、私たちが山崎弁栄の著作を読むことができるのは、田中木叉の働きによる。彼は師の没後、全国を回り遺稿、書簡を集め、編纂、刊行する。しかし、山崎弁栄研究は緒についたばかりである。先師の研究においても、生前の山崎弁栄を知る笹本戒浄、「没後の入門者」である山本空外がそれぞれの立場から論考を残している。宗教哲学者河波昌も評伝を書いている。しかし、さらに注目するべきは彼の著作『光の現象学』と『如来光明礼拝儀講座』である。発言されたのは宗門内部だが、論考は普遍的論議に耐えうる内実を備えている。そこで彼は山崎弁栄を世界思想史に布置して論じる。
 山崎弁栄は、1859年(安政6年)生まれ、没年は1920年(大正10年)に62歳で亡くなる。没後90年、歴史はこの人物を思い出そうとしている。

 

霊性の彼方

 鈴木大拙と山崎弁栄に接点があれば日本宗教史は大きく変わっていただろう。鈴木大拙は早くからアメリカに渡り、山崎弁栄は生前、著作を世に問うことをほとんどしなかったから、接点はなかったのは仕方がない。
 生誕の地、金沢は真宗と縁が深く、鈴木大拙は年少のころからその異端、秘事法門に触れていたというほど関わりは深い。彼は清沢満之の血脈を継ぐ、曽我量深、金子大栄らとも親交を深めていた。浄土教に関する著作も少なくない。法然と親鸞を一人格だと考えるといった彼は、浄土宗と浄土真宗の差異は問題にならなかっただろう。
 視座を世界に広げれば、二人はそれぞれの場で働いたのである。二人を出会わせるのは残された者の役割かもしれない。山崎弁栄もずっと日本にいたわけではない。この人物は、何かに導かれるように釈迦が釈尊になった地、インド・ブッダガヤを訪れている。もちろん、同様の試みにおける近代日本最初期の人物だった。
 同時代人を頼りに、山崎弁栄を年譜上に布置してみる。内村鑑三が生まれたのは、山崎弁栄の2年後、1863(文久2)年。岡倉天心、夏目漱石が生まれたのは、その4年後、1867年である。彼らは「世代」をほぼ同じくしたといっていい。鈴木大拙は山崎弁栄の誕生から11年後、1870年に生まれ、先に見たように、『日本的霊性』が刊行されたのは1944年。山崎弁栄の没後24年経過してからである。
 念仏嘉平といわれた篤信の父親に生まれ、12歳のときに阿弥陀三尊に想見した彼が、21歳のときに出家するのは、自然な道行きだった。
 さまざまな苦行を経てきた道程が伝記に記されている。彼が自らに強いた厳格な修道は、過酷の文字も不十分なほどに厳しいものだった。黄檗版の一切経を読破したのは26歳のときである。
 透徹した修行者、伝統的な教学を修めた仏教者、広く日本中を練り歩いた布教者であり、体系的思想の樹立した思想家。書と絵をよくした。この人物が歩いた後にはいくつも奇跡譚が残っている。彼は、実践的叡智を哲学と実践の両面で表現し、高次な融合を実現した、極めて特異な人物だったといっていい。
 今も彼を慕う人々は「弁栄聖者」と呼ぶが、特異な存在は生前から、宗門内でも知られていた。当時浄土宗管長をつとめていた福田行誡は、幾たびも面会を求めた。さまざまな理由をもとに、弁栄が辞退を続けたため、面会は実現しなかったが、福田行誡は入寂の前に、二十五条の法衣を彼に送っている。ここには不可視な面会と無言の伝達が実現していると考えるべきだろう。
 以下に引くのは、山崎弁栄が生前に刊行した唯一の著作『宗祖の皮髄』の一節である。

 

   彼は実に美なり愛なり。我等が霊性は之を愛慕して益々高遠に導かる。彼は最も遠きに在て而も最も近くして、常に我等を向上せしむ。彼を葵心して愛慕するは奥底の霊性より衝動する力なり。霊性が如来を愛するは同性相吸引する自然の勢力なり。他人より「彼を忘るる勿れ」と命ぜられて初めて動く力に非ず、自分を忘れんと欲するも能わざる霊的の衝動なり。(『宗祖の皮髄』)

 時代を感じさせる文体だが、ゆっくりと読んでいただきたい。1916(大正5)年、当時の管長の命により知恩院で行われた高等講習会で行われた講義「宗祖の皮髄」の記録である。
 このとき彼が知恩院に招かれたのは、名声ゆえに、というだけではなかった。すでに光明主義の活動を始めていた彼を、異端、すあわち「異安心」だという者もいた。宗門の役員を務めていた井上徳定は、本部に猛烈な抗議を申し立てたほどだった。しかし、講義当日になり、最終列で聞いていた井上徳定も終わるころには最前列で聴いていたというほど、講義は聴衆を魅了した。『宗祖の皮髄』が刊行されたとき、井上徳定は広く読まれることを切望すると序文を寄せた。
 この出来事は、当時の山崎弁栄の位置を象徴している。噂を頼りに傍観する者には異安心に映った。しかし実際彼に触れた者は大きく動かされずにはいられなかった。霊性の改革を使命とされた者は、ときに「異端者」の符号を背負わされることがある。珍しいことではない。宗教の歴史が殉教と迫害の歴史でもあるのはそのためだ。
 光明主義というとき、「主義」は、マルクス主義というときのそれではない。同質であるなら、それは一つのドグマに過ぎない。清沢満之が「精神主義」といったときも、それが新思想であることを表明したのではない。「絶対無限者という完全なる立脚地を得た精神の発達する条路、これを名づけて精神主義という」(「精神主義」)。それは「絶対無限者」への「条路」、すなわち、一すじの道だというのである。
井筒俊彦は『神秘哲学』でしばしば「神秘道」という言葉を用いた。神秘は「主義」というはあまりに広大無辺、深淵無底な実在、神秘は「思想」の枠には容易に収まらないというのだろう。柳宗悦は井筒俊彦に先んじて「神秘道」の文字を使っていた。小林秀雄は「道徳は遂に一種の神秘道に通じる。これを疑うものは不具者である」といった。柳宗悦、井筒俊彦、小林秀雄が用いた意味において、光明主義は、いま、光明の「道」と読みかえられなくてはならない。
 先の引用にあるとおり、山崎弁栄における霊性、それは、愛の「衝動」。存在的始原へと遡る本能である。霊性の初動は人間の業ではない。「彼」が人を愛するところに始まる。「彼」が愛せば、人は不可避的に「彼」へと向かう。魂はあくまでも「私」を表現するが、霊性は「彼」、すなわち超越者を現わす。ここでいう「彼」とは如来である。
 愛への本能的帰巣として展開された山崎弁栄の霊性の働きは、アリストテレスのいう「オレクシス;orekisis」を思い起こさせる。人間が神を求めるのは、人間的な実利や信仰心の深まりによってではない。それは、不可避な本能であるとアリストテレスはいう。 如来が無尽の愛を無差別に分け与えることから山崎弁栄はその実在をときに、ミオヤ(御親)、大ミオヤと表現した。先の引用文にあった「彼」すなわち如来は、他者を愛すごとく存在者を愛すのではない。自らを愛するように万物を愛す。
 人間が不死であるのは、「ヌース」が不滅だからだとプラトンはいった。彼の叡智論は山崎弁栄の「霊」の教学に近似している。また、彼は、宗教の究極態を「超在一神的汎神教」(『人生の帰趣』「本尊観」)と表現している。「一切衆生は皆その大霊の分身たる霊性存する故に」と彼はいう。
 すべては「大霊」から分かれ出たもの、世界は超越的一者の分節であるという彼の霊的存在論は、プロティノスの流出論はもちろん、イスラーム最高峰の神秘哲学者イブン・アラビーの存在一性論を想起させる。イブン・アラビーは、哲学的概念として究極的絶対者を「存在」と呼んだ。万物は「存在」が自己展開したものであるとも彼は、いう。
 「存在」が絶対者なら、「存在者」はそれ以外のすべてである。一切の例外はない。人間、動物、植物、石、水などはもちろん、想念あるいは現象すら含まれる。万物は「存在」が不在であれば、実在しえない。存在する者は、「存在」からある働きを分有されることで「存在者」たりえる。その働きをイブン・アラビーは「慈愛の息吹」と呼んだ。万物が存在するのは、超越者の深い慈悲に基づくというのである。
 すべてが神であるというのを汎神論だとしたら、万物は神の表現だとするのを「汎在神論」といって区別する。
 ソロモン王にも野の花にも同じく神は働くと聖書にある。ソロモン王は神ではない。野草はもちろん違う。しかし、神の直接的な関与がなければ王も花も存在し得ない。花は神ではないが、花に神の働きを見ることはできる。詩人ポール・クローデルは一輪の花が咲くことが奇蹟なのだといった。
 ヒエロファニー、ミルチア・エリアーデのいう聖性の顕現も、汎神論的世界ではなく、汎在神論的実在界へと私たちを導く。聖なる石がある。聖なるものは自己顕現の場として一個の石を選んだ。石は聖別された受容体であって、石が聖なるもの自体なのではない。
 聖なるものは、石だけでなく、花に、水に、火に、土に、色に、光に自らを表す。むしろ、いつもそれらをも通じて自らを表している。井筒俊彦が自著に引用するイスラームの聖伝ハディースにある一節がその世界を著している。「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した」。「私」、とは「神」である。
この言葉は、全世界、すなわち存在界自体が神の表出、表現に他ならないことを明示している。
 山崎弁栄の創造論的世界観は、汎在神論を超えて行く。「超在一神的汎神教」という言葉には、思想史上の汎神論と汎在神論を超える響きがある。プロティノスを論じ、同じく汎在神論を超える何かを見た『神秘哲学』の井筒俊彦の言葉を引いておきたい。それはそのまま山崎弁栄にもいえるのである。
 ここに詳論することはできないが、二人の思想あるいは彼らが見た存在の光景は類似というにはあまりに高次な一致を指し示している。「万有生起論」は井筒俊彦が強く影響を受けたイブン・アラビーの「存在一性論」を思わせる。

 この神的内在論に就いて、それがpantheismus(汎神論) か或いはpanentheismus(汎在神論)かを議論する必要もない。プロティノス自身の一者観の肯定的側面、即ち内在論的側面に於ては、神が万有に内在するのではなく、明かに万有が神に包有され、神の裡に内在するのである。

 

 啓示的体験と観照的思索によってのみ、山崎弁栄の教学が樹(た)樹ったのではない。それは西洋哲学および他の宗教との積極的対峙のうち形成されていった。著作には、仏教諸派の先達だけでなく、キリスト、マホメットあるいは孔子といった聖賢だけでなく、天理教の中山みきにも言及している。プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、シュライエルマッハの名前を見ることもできる。なかでも特徴的なのはキリスト教との間で起こった、融通ともいうべき宗教的昇華である。
 山崎弁栄の教義において「重要な展開の一部は、キリスト教的であり、キリスト教そのものであり、さらにはキリスト教を超えてよりいっそうキリスト教的でさえあったのである」と河波昌は『光の現象学』の序文でいった。

 

 法身は宇宙の全体と能力とにて、此によって衆生は此本源ありて生産来て現に活きつつあり。法身からうけた霊性の卵は報身の光によって孵化せらる。報身の無量光明が衆生の心霊を摂めて孵化し給う能力は十方界に遍照するも、若し応身の釈尊が世に出でて懇切に教え給わねば衆生は自分の力で其報身の光明を仰ぎて之に霊化せらるるの真理を知ることは出来ぬ。(『無礙光』「霊性の孵化」)

 

 神は万物を産み、活かす、聖霊は霊性を照らすが、人間は自分の力だけで、霊的人格を自覚することはできない、神はイエスとして現れ、人間として生きた導きとなった、キリスト教三位一体の世界である。「法身 報身 応身の聖き名に帰命し奉る 三身即一に在ます最と尊き唯一の如来よ」(「如来光明礼拝儀」)と山崎弁栄がいうとき、如来は唯一神である。
 「それ仏に三身あり。教えはすなわち二種なり」(弁顕密二教論』)と空海はいう。「教え」とは顕教は「二種」、報身と応身のみで、「法身」を教えない、それは密教の領域だというのである。また、空海には大日如来が法身仏、それは光明主義の如来に等しい。  ここに至っては狭義の一神教、多神教の概念は崩壊している。仏教は無神論であるという論議もまた、続けることはできない。
 日本的霊性の探求は、鈴木大拙が妙好人浅原才一を論じたところで止まっている。山崎弁栄と浅原才一間には九年の差しかない。先に生まれたのは、浅原才一である。再びそれが試みられるとき、私たちは山崎弁栄を論じ、そして、鈴木大拙へと進まなくてはならない。

(若松英輔)

禅と浄土、その対立を超えて、新しい大乗仏教の地平

大乗仏教は紀元前後頃、インドにおいて成立し、中国を経て日本において豊かに展開された。いわゆる仏教が三国伝来ともいわれる所以である。なお、その大乗仏教はその禅と浄土との関係からいって

  • 禅浄未分の時代(中国禅の成立 ―紀元六世紀頃― まで)
  • 禅浄分裂の時代(中国禅の成立より現在にいたる)
  • 禅浄統合(禅浄双修でなく、禅浄成立の根源に還ることによる大乗仏教の新たなる創造) ―20世紀以降)の時代

の三段階に分けて考えられる。
 ところで、日本仏教は宗派(祖師)仏教ともいわれ、従来、禅は禅で、浄土は浄土で固定的に考えられ、またこれら両者のあいだには殆ど交流も見られない状況である。それゆえに禅は禅で独立し、浄土に関しては我れ関せずであり、浄土もまた禅に対して同様である。そして、第三者の立場に立てば、日本仏教には大きな流れとして禅と浄土との二つの流れがある、ということになる。とりわけ京都の町等を歩くとき、そこに立ち並ぶのは禅宗と浄土宗の大伽藍ばかりでその印象はいよいよ強まる。
 ところで本論は、禅が禅として成立し来たるその根源底を尋究し、また浄土は浄土で同様にその深奥にせまることを試みるものである。そして、このようにその両者の由来を求尋する時、これら禅浄の両者がどこまでも共通の一つの源底において成立していたことが考えられるのである。そして、それが大乗仏教そのものの根源底なのでもある。
 そこからまた禅浄の両者が別なものではなく、またそれら二者を双修するのでもなく、どこまでも最初から一つのものとして統合的に考えられることもできるのである。そしてそれを百パーセント実践を通して実現していったのが山崎弁栄(1859―1920)であった。山崎の存在は、一般的には浄土宗内の革新運動者としてみられがちであるが、決してそれのみにとどまるものではない。実にかれは、千数百年にも以前に分裂していった禅と浄土とを、その根源に還ることによって、それら両者を止揚し統合していったのである。それは大乗仏教のそのものの革新といえる意義を有しているのであり、さらには、そこには、大乗仏教の新たなる創造を意味する点さえもが考えられるのである。

1.禅浄の根源としての初期大乗仏教の展開

 

a 原始大乗仏教から初期大乗仏教の展開へ

 インド大乗仏教は、大きく3期に分類される。すなわち、初期(第1期)、中期(第2期)、後期(第3期)の三段階である。初期大乗仏教とは紀元前1世紀後半から龍樹(150~250)の活躍した時代まで、中期は龍樹から世親(4~5世紀頃活躍)の時代まで、そして後期の世親以降と考えられている。
 ところで初期大乗仏教の成立には一つのメルクマールとしての重要な経典類の成立が考えられる。それは、おそらく紀元前1世紀の後半頃に成立していった原始般若経典群である。それらの経典群、たとえば『道行般若経』『小品般若経』あるいはサンスクリット語の『八千頌般若経』等においてはじめて「大乗」すなわちマハーヤーナの語が登場し、また大乗仏教独自の概念たる「空」シュンヤターが展開されてゆくからである。これらの経典と共に大乗仏教は本格的に展開してゆくことになる。
 ところでそれら最初期の大乗経典の成立する更にそれ以前に、すでにかかる大乗精神を成立せしめてゆく時代が先行していた。それはいわゆる「大乗以前の大乗」、すなわち「大乗」の言葉はみられぬが、すでに豊かに大乗の精神が展開せられていた時代である。それは学会においても「原始大乗仏教」 ―原始仏教ではない― という形で究明されつつある。(たとえば静谷正雄『初期大乗仏教の成立過程』昭和49年)。
 原始大乗仏教とはいわゆる大乗仏教が成立する約50年間先行する期間で、まだその段階では「大乗」も「空」も登場せぬとはいえ、大乗仏教がそこから無限に豊かに創造的な展開がなされてゆく土台が存しているのである。
 ところでかかる原始大乗仏教の核となるものがいわゆる仏塔(ストゥ―パ)崇拝であった。それまでの仏教は僧院仏教でアビダルマと称せられる出家比丘たちによる煩瑣な哲学が行われていたが、それらは一般大衆にとっては無縁のものであったのである。しかしながら、釈尊の舎利が祀られる仏塔の成立におのずと大衆の信仰は集中せられてゆくことになるのである。仏塔とはそこで数百年前に滅した釈尊が実はその舎利=仏塔のところに現前し、大衆はそれと直接に交わってゆくのである。それはまさに大乗仏教における念仏そのものの始まりであった。それはまた、アビダルマにおける法中心から仏中心への転換を意味するものでもあった。
 インドを初めて統一した阿育王(アショーカ王、治世紀元前268━232)は八万四千ともいわれる無数の仏塔をインド全土に建立したといわれている。たとえば釈尊も未踏のガンダーラにもその遺跡は残されている。かかる無数の仏塔の建立はおのずと時空の限定を超えた仏身の遍在omnipresenceに連なり、そして仏身はその一々に現前presenceする。後代『華厳経(六十巻)』で「仏身充満応法界、普現一切群生前」(仏身は充満して法界に遍し、普く一切の群生の前に現ず)の原型はすでにそこにみられる。そしてその仏身の現前する仏塔において祈り(三昧)の形式がおのずと成立し、また賛歌等が奏せられ、宗教儀等も成立してゆく。そしてそこに必然的に原始(○○)大乗教団が成立してゆくことになるのである。
 ところで、この仏塔の建立には相当額の費用も必要であり、多くの仏塔の建立にはその寄進者の名を刻む碑も残されている。その刻まれた人たちの人名をたどることによって原始大乗教団の構成メンバーも明らかになる。たとえば中村元博士はその一研究成果としての一碑文においてインド人の名のみでなく、ギリシア人の名も刻まれ、とくにギリシア人の女性の名も多く刻まれていることに驚いている。そのことは紀元前一世紀の前半において、すでにギリシア人の女性たちも仏塔前において念仏していたことを意味しているのである。仏塔崇拝からやがて仏像崇拝へと転換してゆくことになるが、それはとくにギリシア人の仏教の信仰者たちにとっても必然的といえるいとなみであった。それはまさにインドにおける形相主義の展開ともいえるものにほかならない。インドにおいて多くのアポロン神やアテネ神の彫像が考古学的に発見されているが、それらは、その当時インドに在住したギリシア人たちの祈りの信仰の対象であったのである。そしてかれらギリシア人において仏教への信仰による仏塔崇拝から仏像礼拝への必然的な転換がなされていったことが考えられるのである。かくて原始大乗仏教の成立のプロセスにおいて、おのずと念仏三昧の実践が形成されていった。そして、この実践においてその後二千百年にもわたる大乗仏教の実践の核が形成されていったのである。

 b 般舟(念仏)三昧と般若波羅蜜

 初期大乗仏教における最も重要な契機は、『般舟三昧経』の成立である。そしてその実践がなされていったことである。そしてこの般舟三昧は原始大乗仏教における仏塔崇拝から直流しているものなのである。
 般舟三昧とはサンスクリットのpratyutpanna すなわち prati + utpanna の音写と考えられる。ここで prati とは、「近くに」、「眼(面)前に」、「各々において」等の意であり、utpanna とは「現前す」、「出現す」等の意味である。それゆえに「般舟三昧」とは、「仏が衆生の眼(面)前に現前する」、「近く現前する」、あるいは「衆生の各々において現前する」等の意味が考えられ、いわゆるpratyutpanna buddha-samadhi が成立するのである。
 『般舟三昧経』(支婁迦讖訳三巻本)自身によればこの「般舟三昧」は、
 「何によってか現在諸仏悉在前立三昧を致すや。・・・独り一処に止まり、心に西方の阿弥陀仏、今現在したまうを念じ、・・・一切常に阿弥陀仏を念ず」(正 13 九〇五 a)
等と述べられている。そしてさらに仏(この経では、釈尊から阿弥陀仏へと展開されているのであるが)を念ずるその内容について
 「・・・仏身に三十二相あって悉く具足し、光明徹照し端正無比なるを念ずべし」(正 13 九〇五 b)
と説かれている。すなわち仏の形姿を念ぜよ、と説くのである。それはさらに後代になって『観無量寿経』における「仏を思わん者は先ず当に像を観すべし(先当観像)」へと一貫してゆくものである。それはギリシア人たちがアポロン神を念じていた内容からアポロン仏 der apollonische Buddha への転換の線上と連なっている。形のないものよりも形のあるもを優先して考えていたギリシア人にとってそれは必然的であった。
 ところでこの経典においてかかる形相的思惟(念)ーインド仏教においては思惟と念とは同義語である)が必然的に空の展開へ相即しているのである。すなわちこの経典の「行品」において、
 「念仏を用うるが故に空三昧を得。」(正 13 九〇五 b)
あるいは、
 「この三昧を証すれば空定なること知る。」(正 13 九〇五 b)
等と述べられている。
 すなわち空は空自身として証得されてゆくのではなく、形相的思惟の実践の中から開かれてゆくのである。より後代に成立した『般若心経』(紀元400年頃?成立)における「色即是空」rupam sunyta における「色」rupa とは、本来サンスクリットでは形相を意味し、「色即是空」も単なる「空の論理」にとどまるものではなく、初期大乗仏教以来の実践的背景が考えられねばならない。またこのようにして般舟三昧において仏像(形姿)が空への不可欠の契機となっていることが考えられるとすれば、かかる空思想の成立の背景にギリシア文化の関わりも予想せざるをえないであろう。
 また般舟三昧がかかる仏の形像への思惟の集中にあるとしても、それは必ずしも仏像の成立を前提とした上での行法であるとは限らない。仏の三十二相等については、すでに釈尊の原始仏教の展開の最終期には成立していたのであるが、かかる三十二相への想念の集中は必ずしも仏像そのものの存在を前提にしない。むしろかかる三十二相への想念のいとなみが、ギリシア的な形相主義的想念とも相い俟って、やがて仏像そのものを成立せしめていったと考えるべきである。かかるいわゆる仏像の成立には単なる芸術的ないとなみよりもより根源的に実践的な契機が考えられるのである。
 このようにして『般舟三昧経』において形相的思惟の遂行に即して空が露わになるのであって、そこから空が積極的に考えられるのである。
この般舟三昧が空の実践と相即していることは、この三昧が縁起の構造において成立していることが考えられるからである。この『経』(行品)では、この三昧の内容について「念仏の因縁に従って仏に向う」と述べられているが、ここで因縁とは玄奘以前の縁起に他ならない。すなわち念仏自体が縁起そのものであって、その構造において念仏が実践されていることを意味しているのである。なお、『般舟三昧経』には梵本がないが、チベット訳に対応する文として「仏を縁ずることに心を向ける」(玉城康四郎訳)がみられる。すなわち念仏の実践がそのまま縁起の実践になっているのであり、そこから必然的に空の世界がひらかれてゆくのである。それは決して私という実体があって、その私が仏を念ずる―そこでは観念論に堕す―のでもなく、また実在する仏、すなわち先住論的な仏―私たちは最初はそこから抜け出ることはできないとはいえ―まさにかかる主‐客(私と仏)関係に即してその念仏が縁起の構造そのものであるので、念仏そのものにおいて縁起(空)の実践が遂行されてゆくのである。
 それゆえにここで空が積極的に展開されるとしてもその空は色(形相)を離れない。いわゆる「空不異色」(心経)なのである。
 そのことは空を説く原始的般若経典たる『道行般若経』においても、また後代の『文殊般若経』等においても同様であり、これらにおいて空が説かれながらも般舟三昧が、あるいは『文殊般若経』では、一行三昧ないし一相荘厳三昧が説かれる所以である。  そのことはたとえば最古の般若経典たる『道行般若経』(愚無竭菩薩品第二十九)における次のごとき文、すなわち
 「ブッダが完全に涅槃されたのちのある人が「仏の形像」をつくるとしよう。ひとは仏の形像を見てひざまずいて拝み、供養しないものはない。その像は端正ですぐれた形相をもっていて(ほんとうの)ブッダと少しも異なっていない。ひとはそれを見て歎称し、花や香やいろどった絹をもって供養する。賢者よ、仏という神が像の中にあるのであろうか」(梶山雄一『般若経』(中央公論社)七六~七七頁の訳による)。
と述べているところからも明瞭である。また、『文殊般若経』における一行三昧も玄奘訳では「一相荘厳三昧」ekavyuha-samadhi となっており、いわゆる一相荘厳への想念の集中としての形像的思惟において空の実践が遂行せられていることが知られるのである。  中国の禅の第四祖道信(580―651)はこの『文殊般若経』所説の「一行三昧」によって空の世界を開いていったのである。(後述)
 『般若経』は、単なる空を説く経典と固定して考えられるべきではない。むしろ般若経典にも、原始大乗仏教以来の塔像崇拝は直流しているのである。そしてまた空を説く『般若経』になぜ般舟(念仏)三昧が出てくるかの必然性が考えられるのである。
 このように般舟三昧の実践と空の実践とは実に相即しているのである。如来への想念の集中は、そのこと自体において自己脱却がなされ空の実践となっているのであって、両者はその実践においてどこまでも一つなのである。
 山崎弁栄も念仏三昧の実践を説くに際して、
 「(如来の前で)あなた(念仏の実践者)の心はなくなりて、残るところはただ如来様ばかりとなり候」
と述べているが、作仏(如来となる)に即して、心がなくなる(空)ところが述べられているのである。このように空はいわば念仏三昧に即して、あるいはその結果成立してゆくのであって、最初から空が根本的な原理として存在しているものではない。かかる点で膨大なる般若経典群の成立も塔像崇拝―念仏三昧の線上において成立していったことが考えられるのである。しかしながら後代、この線上から離れて『金剛般若経』や『般若心経』等にもみられるように全体としての念仏三昧の実践から空の一面のみ強調されるようになる時―その空の展開自体念仏三昧の必然的展開であるとはいえ―空のみが単独に説かれてゆく経典が成立していったのである。初期大乗経典において般舟(念仏)三昧と空を説く般若経典の成立が考えられるとしても、それは決して空を説く般若経典の中に念仏の思想が混入したのではなく、塔像崇拝に連なる般舟三昧の実践の中から空が、そして膨大なる般若経典群が成立していったのである。

c 最初期の華厳経典を貫く念仏三昧

 『華厳経』はその「六十巻本」や「八十巻本」等にもみられるように膨大な経典群より成立している。しかもそれは一挙に成立したものではなく、数百年の永きにわたって成立していった経典群で、それらは後代になって、一つの経典として編集されまとめられていったものである。そして「六十巻本」でいえば、その中の「名号品」、「光明覚品」にはそれに先行する原始華厳が予想されるのであるが、その「光明覚品」において、「一向に如来を信じ・・・諸仏を念ずることを離れざれ」といった念仏三昧を強調する文がみられる。
 また同様に、『華厳経』の中でも「十地品」(その原型は『十地経』等)と「入法界品」(その原型は「不可思議解脱経」)も『大智度論』への引用にもみられるように大乗仏教の初期の段階で成立していたことが知られる.そしてこれら両品は『華厳経』全体を支える二大支柱をなすものなのである。
 ところで、まず菩薩の十地(修行の十の段階)が説かれる「十地品」は、一貫して念仏三昧が説かれるのである。その念仏三昧は原始大乗仏教に直結し、般若経典に直流していたところのものであるが、その念仏三昧が「十地品」にも一貫して流れているのである。そして『般若経』においては、たとえば「不離仏値遇仏(『大品般若経(往生品)』)として説かれてきた念仏三昧が『華厳経』においてもさらに豊に展開されてゆくのである。
 たとえば同経「十地品」の中の第七現前地において、
 「菩薩、現前地に住すれば数百千億の仏をみたてまつることを得」(正 8 五五九 c)
等の文が見られる。ここで見仏とはもちろん念仏三昧の極致を示している。そしてまた、
 「この菩薩、現前地に住すれば般若波羅蜜において偏えに勝る」(正 8 五五九 c)
と説かれ、念仏三昧に即しての般若波羅蜜の完成が述べられるのである。
 このようにして十地品における十地の各段階においてくり返し「菩薩、この地に住すれば・・・皆仏を念ずることを離れず」の文が述べられるのである。すなわち十地の全体が念仏三昧によって貫かれていることが知られる。このようにして「十地品」における菩薩の実践の中核が念仏三昧そのものなのである。
 「十地品」と同様、「入法界品」においても念仏三昧の実践がくり返し説かれてやまない。「入法界品」はいうまでもなく善財童子の求道物語であり、最初の文殊(師利)菩薩から第五十三番目の普賢菩薩に至るまで求道の内容が示されてゆくのであるが、その最初の文殊菩薩においても、また最後の普賢菩薩においても、その説かれるところは念仏三昧なのである。いわば、「入法界品」においても念仏三昧の立場は一貫しているのである。  そのことは、たとえば文殊師利の、
 「広大の心を発して・・・一切の仏を見たてまつりて、恭敬し供養して心に厭足なく・・・」(正 9 六八七 b)
は、そのままが念仏三昧の実践そのものの内容にほかならない。
 同様に最後の第五十三番目の普賢菩薩もみずからの実践を、
 「我れ、過去不可説不可説の世界海の微塵に等しき劫において・・・仏を見たてまつりき=念仏三昧」(正 9 二七八 a-b)
等と説かれさらに、
 「如来の浄智の月は・・・直心の水に処して・・・清浄の法身の中に、像として現ぜざるなし。・・・」(正 9 七八八 a)
等とも説かれ、現前する像(形像)がそのまま法身と相即的にかかわり、まさにこのような状況としての念仏三昧の世界が論述されているのである。
 なお、『華厳経』の全体にわたってこの念仏三昧はくり返し詳述せられ、そこからのさらなる広大な仏教の真理の世界が展望されてゆくのである。すなわち、如来出現、入法界、虚空三昧、海印三昧等としてである。

2.中国禅の成立と禅浄の対立

インドの大乗仏教は多くの訳経僧たちによって中国へと伝えられ、やがて中国仏教が成立していった。そしてやがて中国における禅の成立をみることになる。
ところでインドから渡来した禅宗の初祖、菩提達磨(5世紀から6世紀前半)には六祖慧能以降に形成された中国独自の立場からイメージされた達磨像が一般化されている。しかしながら、本来のかれの実像は、たとえば玉城康四郎も指摘し、「菩提達磨でさえ、最晩年になっても、「口に南無仏と唱え、合掌連日」といっていたではないか」と論じている(『仏教の思想』4 禅仏教 八頁)ように念仏していたことが考えられる。
 初期の禅宗は資料的に不明な点が多いのであり、第四祖道信(580―651)の頃になって次第に歴史的客観性が明確化される。初期禅宗史の資料としては『楞伽師資記』(浄覚選、713―716頃成立)が重要である。そして、そこでは、たとえば道信が一行三昧、すなわち般舟三昧によって悟っていったことが述べられている。
 道信が実践した一行三昧とは、曼荼羅仙訳の『文殊般若経』によれば、
 「一行三昧に入らんと欲せば、まさに空閑に処して諸の乱意を捨つべし。相貌を取らず、心を一仏に繋けて専ら名字を称し、仏の方処に随って端心正向し、よく一仏に於いて念念相続せば、即ち是の念の中によく過去未来現在の諸仏を見ん」(正 8 七三一 b)
と述べられている。また玄奘訳(『大般若経第五七五曼殊室利分』)では、
 「かくの如き三摩地に入らんと欲する者は・・・一如来に専心繋念し、審かに名字を取り、善く容儀を想え・・・・・」(正 7 九七二 a)
と説かれている。

 ここで一行三昧に対応する一相荘厳三昧の原語ekavyuha-samadhi からも理解されるように、この三昧の内容が如来の容儀すなわち形姿の想念への集中を意味している点でインド大乗仏教の初期経典たる般舟三昧に直結していることはいうまでもない。
 それ故に『楞伽師資記』では道信について、
 「・・・心心相続すれば忽然として澄寂なり。さらに所縁の念なし。『大品(般若)経』に云わく、無所念とはこれ念仏に名づく。何らをか無所念と名づく。心を離れて別に仏有ることなく、仏を離れて別に心有ることなし。念仏とは即ち念心なり、求心とは即ちこれ仏を求むなり」(正 85 一二八七 a)
とも述べられている。ここでは念仏はそのままが空(澄寂)であり、空がまたそのままが念仏であることが示されている。また仏を念ずることが心を念ずること等が説かれ、そこにはいわゆる念仏の中に禅の地平が百パーセント開かてていることが知られる。なお、禅宗が明確に成立せぬ段階では、未だ座禅も考えられず、道信を始め多くの禅者たちは般舟三昧ないし般若経等によって修行がなされていったことが考えられる。
 またここで「心を離れて別に仏有ることなく、仏を離れて別に心有ることなし」とも説かれているが、かかる心と仏の関係は縁起そのものである。しかしながらこの両者の文がその相即性あるいは縁起性から離れて、たとえ寸亳でも二つに別れる時、そこにいわゆる禅と念仏とが分かれる。たとえばそれはアルプスの峰に降る雨水にも似ていて、その落ちる水滴の寸亳の差が日本海に流れるか太平洋に流れるかそれぞれの差となってゆくがごときである。
 そして「心を離れて別に仏あることなし」に傾斜して独立してゆくとき、禅にみられるように仏は心から浮き上がり、仏は二次的になり、さらには空に偏する無神論的傾向をたどることになる。逆に「仏を離れて別に心あることなし」の方向に他力的な念仏門が展開されてゆくことになる。そして、結果的に禅浄二門が分かれてゆくことになるのである。そして道信はにまさにかかる禅浄未分の世界から一歩禅門への成立がたどられてゆくことが考えられるのである。かかる禅浄の対立の原因は仏と心との縁起の忘失によるといえるのである。かくて唯心(自己)あるいは「直指人心」を説く禅門が、そしてそれと対応して禅門とは別に念仏門が展開されてゆくことになるのである。しかしながら、大乗仏教の本来の立場からいって一貫するところは縁起そのものの実践としての念仏三昧自体であり、インドにおいてはそこから空の実践としての般若波羅蜜の行法が成立し、中国においても同様に念仏(一行三昧)から禅の成立がたどられるのである。
 なお中国におけるかかる禅の展開には、中国人の基本的傾向としての超越者の不在、あるいは老荘思想が土台にあってそこから中国禅への動向を考えることができる。かかる点で禅はインド大乗仏教を全面的に受容しつつも中国的な土着性が予想されるのである。

3.禅浄の統合と新しい仏教への地平

a  禅浄の統合の先駆としての法然

玉城康四郎は『仏道探究』の中に、
 「念仏といえば、今日では浄土教の独占のようにいわれ、禅定は禅宗の際立った特徴のように考えられている。しかしブッダにおいては、念仏と禅定の二つが一つになったのではなく、もともと一つである。念仏がそのまま禅定であり、禅定がそのまま念仏である。」(同書 36頁)
 あるいはまた『仏教の思想 4 禅仏教』の中で、
 「(禅と浄土の統合の問題よりも)もっと重要な問題は、むしろ浄土教と禅とを仏教のなかで位置づけてみることである。浄土教は、大乗各派の教理と比べると、特殊であり異質のようにも見える。しかし大乗諸経典のなかでとらえてみると、必ずしもそうではない。むしろ浄土教として展開する必然性を含んでいると思われる。・・・しかし禅宗として形成された発想・見解のなかには中国民族の恣意性も現れて、仏教にそぐわない面も出ている」(同書 148―149頁)
 そしてまた、玉城は、
 「・・・中国仏教で浄土教と禅宗が分かれ、日本仏教はそれを受けついだ。禅定といえば禅宗に属し、念仏は浄土教の占有物となった。二つに分かれたためのプラス面もあるが、現代ではマイナス面だけが残った。今日では、浄土教も禅宗もブッダの原点を深く省みる必要がある。」(『悟りと解放』81頁)
とも述べている。
 ここでブッダの原点とは大乗仏教を貫通する念仏三昧そのものにほかならない。そして大乗仏教をその全体において展望していたのが実に法然である。法然は59歳の折の「東大寺十問答」の中で、「八宗九宗みないづれをもわが宗の中にをさめて、聖道浄土の二門とはわかつなり。」(『捨遺和語燈録』巻下)
とのべている。ここで南都六宗に真言天台を加えた八宗にさらに禅をも加え九宗のぜんたいが浄土門(わが宗)の中にあると述べている。『一切経』五回までも読んだとされる法然にはその全体が浄土門のうちにみられていたのである。法然には、聖道浄土二門の対立をも包含する浄土門の展望があったのである。
さらに法然においては66歳にいたって、かかる全体的な展望が南無阿弥陀仏の称名に止揚されてゆくのである。かれは『選択本願念仏集』第3章において称名の功徳について論じ、名号のうちに仏法のあらゆる万徳の摂在を説いているのであるが、そこには聖道と浄土との悟りの全内容の摂在が説かれている
のである。そしてそれはそのままに実践体系論となっているのであり、そこで禅浄の対立が念仏の実践の上に止揚されている点が、きわめて重要である。 そしてその内容を念仏三昧の実践を通して実証し実現していったのが山崎弁栄であった。

b 山崎弁栄における禅浄の統合

 一切経を五回も読んだといわれる法然の浄土宗には、いわゆる八宗兼学の精 神がながれていた。それは近代になって、たとえば福田行誡(1806―1888)においても強調され、山崎弁栄自身も一切経を読了し、それを実践していったのである。すなわち21歳にして出家した山崎は、仏教を単なる学問上の知識にとどめず、熱烈に念仏三昧を行じたのである。その修行時代の記録に、
 「愚衲、昔、二十三歳ばかりの時にもっぱら念仏三昧を修しぬ。身はせわしく、事に従うも意は暫らくも弥陀を捨てず、道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるも知らず。三千界中、唯(ただ)唯(ただ)心眼の前に仏あるのみ」(『日本の光 弁栄上人伝』)
といった文も残されている。またその頃、
 「また一日、道潅山に禅坐して『文殊般若(経)』をよみ「心如虚空無処住(心は虚空のごとく住する所なし)の文に至って、心、虚空法界に周遍して、内にあらず、外にあらず、中間にあらず、法界一相の真理を会(理解)してのち、心、常に法界に一にせるはこれ平生の心念とはなれり。・・・」(『無辺光』)
といった体験も語られている。かれにおいては、念仏三昧と法界観とは一つの事実として悟入されていったのである。そしてさらに筑波山上での二か月の念仏三昧の修行へと連ってゆくのであるが、その所の宗教体験の内容を、
 「弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了々」
  (阿弥陀仏の身と心とは法界(宇宙全体)に遍満し、衆生念仏すれば仏も還(ま)還(ま)た念じたもう。一心に専ら仏を念じて能(私)と所(仏)とが亡ずれば、果満覚王たる阿弥陀仏が独り了々として現前している)と表白しているが、その内容は般舟三昧そのものにほかならない。このようにして山崎は生涯にわたってその宗教的実践の内容を深めていったのであるが、そこにはもはや禅浄の対立はない。それは禅浄でいえば、それぞれが百パーセントの展開がされていったのである。
 そのことは大正5年の浄土宗総本山知恩院での高等講習会の論述にもみられる。ここで山崎は念仏三昧についての種々の経験を語りつつ、
 「自性は十方法界を包めども、中心に儼臨したもう霊的人格の威神と慈愛とを仰ぐもあり。真空に偏せず妙有に執せず、中道にありて円かに照らす智慧の光と慈愛の熱とありて、真善微妙の霊天地に神(たましい)を栖(す)まし遊ばすは、これ大乗仏陀釈迦の三昧、またわが宗祖(法然)の入神のところなりとす。こいねがわくは識神を浄域に遊ばしむることを期せよ」(『宗祖の皮髄』101頁)
と論じている。ここで「自性は十方法界を包む」はそのままが禅体験の内容であるが、そこはまた霊的人格たる阿弥陀仏との全面的な交わり(念仏三昧)と相即しているのである。「真空に偏せず妙有に執せず」はまさにその消息を語っている。このようにかれにおいては禅浄の対立を大乗仏陀釈尊の三昧の原点に還り、またそこに法然の宗教体験の世界がみられるのである。山崎には「佗仏を念じて自仏を作る」の文にもみられるように念仏はそのままが縁起の実践に他ならなかった。そしてその縁起の線上に念仏がそして禅が開かれていったのである。そこでは禅と念仏は一つの世界である。
 なお、山崎には多くの詩歌等も残されているが、そこにも禅浄一如の世界が豊かに展開されている。たとえばその一つに、
  十万の億と説きしもまことには 限りも知れぬ心なりけり
がみられる。ここで「十万の億」とは、『阿弥陀経』所説の十万億仏土を超えた極楽世界のことであり、それをも包んでの心の遍在が説かれている点で、浄土門の教えに即して禅の世界が余すところなく展開されている。またそこには神話的な他界信仰の原始的信仰は完全に脱却されて禅浄の対立を突破した真実の世界が展開されているのである。今や現代の仏教は釈尊の原点に還ることによって禅浄の対立の超克が提起されるべきではなかろうか。

結語

 法然は「八宗九宗みないづれをもわが宗(浄土宗)のうちにをさめて」といった展望を開いていた。しかしながらそれにもかかわらず現在、浄土宗は宗派仏教の中の一宗派にとどまっている。しかしその法然の浄土宗は単に禅と対立するところの浄土宗ではなく、むしろかかる禅さえもそこから無限に展開されてゆくところの釈尊=大乗仏教そのものに連なるところの浄土宗のことであった(究竟大乗浄土門)。しかしながら禅が成立してゆくことによって、実にその禅さえもがそこから展開していった浄土門と対立関係が生じるようになっていったのである。そのことは大乗仏教そのものの展開の上からいっても不幸な出来事であった。山崎弁栄はみずからの宗教的実践(念仏三昧)によって禅浄の対立の地平を突破し、釈尊の根源底に還ることによって、新しい宗教の創造を試みたのである。それがかれの光明主義運動であった。そして山崎において、この光明主義はさらにキリスト教をもその視野にいれて新たなる展開が遂行せられていったのである。そしてそれは山崎滅後九十年を経た現在においても足下の課題でもあるのである。

(河波昌)

山崎弁栄の念仏思想

                                  

一、はじめに

山崎弁栄師の宗教思想及びその実践は、存命当時より僧俗に大きな影響を与え、その感化を受けた人々により着実に継承されて現在に至ってる。しかし、現在一般の人々の間でその名前がよく知られているとは言い難い。  かくいう筆者も、熱烈な念仏行者であるというおぼろげなイメージしか持ち合わせておらず、今回の企画の中で弁栄直筆資料に接することによって、念仏行者という面に加えて、極めてユニークな宗教思想家でもあったことを知った。  また、多くの豊かな言葉でその思想を具体化していたという点では、例えば空海や道元がそうであるように、弁栄も日本仏教におけるロゴスの人であったのだということを改めて認識し、この近代浄土宗僧侶の存在に刮目した次第である。  このように、弁栄思想については、全く「初心者」である筆者が、敢えて感想めいた言辞を寄せるのは、没後九十年に当たる今日、必ずしも一般に広く紹介されているわけではない山崎弁栄の展覧会が催されるという、この貴重な機会に、むしろ弁栄の名前を初めて聞いたというような方々にも、一体、山崎弁栄とはどのような宗教家であったのか、その思想は如何なるものであるのか、そしてその今日的意義について、既存のフィルターを通さずに直接考えていただくためのささやかなきっかけになればと思ったからである。既に弁栄上人と熱く渇仰讃歎し、その思想に深く傾倒している方々には無用の長物であるかもしれないことをお断りしておく。

二、不断念仏の実践

かつて三河の浄土宗寺院の資料調査に従事していた頃、調査の合間に交わす住職との何気ない会話の中でしばしば耳にしたのが浄土僧弁栄のことであった。「べんねいさん」と今でも親しく呼ばれるその人は、話の推移から察するに熱烈な念仏行者であるらしい。三河の諸寺院には、彼自身の足跡はもとより、その教えに帰依し、実践した多数の念仏者の逸話が生き生きと語り継がれている。
 さらに弁栄に発する「光明会」は、とにかく文字通り「南無阿弥陀仏」と唱えるのみの「別時念仏」(不断念仏)を数週間にわたって現在でも実践しているのだという。果たしてそのような専修念仏集団がこの世に存在しているのかと、その時は半信半疑で聞いていたのだが、その後、九州や四国に資料調査を試みた折りに、彼の地でも同様に弁栄や光明会のことを聞くに及んで、予想以上に弁栄の教えが全国に広まり実践されていることを実感した。  そこで、光明会の不断念仏に参加したこともあるという住職にその様子を聞いたところ、数日間にわたって不断念仏を続けると、人によって反応に違いはあるものの、多くはさめざめと涙を流すという。
 不断念仏に限らず、一般に「行」というものは日常生活から隔絶して行われるものであるから、我々が日常の生活の前提、拠り所としているところの様々な情報が遮断されるため、日々の生活の中で我々の心の表面に固着した「自我」の殻が剥がれて、世間的な地位や役割とは関係のない、ただ一個の人間としての裸の自分がむき出しになる。  特に不断念仏のような、念仏を唱え続けるという、ごく単純な動作の繰り返しにおいては、考えて判断、区別し、より利益の多いものを選択するといった、我々が日常生活の中で常に行っている合理的な、言い換えれば小賢しく卑小な精神活動の働く余地がなくなり、深く行に入れば入るほど、自身の裸の心、存在の真実に否応なく直面し、それを直視せざるを得ない状況に追い込まれてゆく。
 その結果、それまで心の奥底に隠したり、あえて忘却に任せたりしていた、他人には知られたくない、自分でも考えたくない、認めたくないような、自身のそれまでの人生の真実の一コマ一コマが堰を切ったように噴出し、全く素直な気持ちでそれらと向かい合うことにより、初めて心の底からの悔恨・懺悔・感謝の気持ちがわき起こり、とめどなく涙があふれ出て、それによって心の浄化(カタルシス)が果たされる―のであろうと、これはどこまでも筆者が従来想像していた不断念仏が行者に及ぼす精神的作用なのである。
 しかし、今回弁栄関係の資料を参照するに、別時念仏においては、念仏だけを行うのではなく、夜には学習会などが開かれ、その場で弁栄の思想が参加者に伝えられて、参加者はその弁栄思想を心中に想起しつつ翌日の不断念仏に臨むようである。
 よって、単一行為の繰り返しから引き起こされるトランス状態によるカタルシスを期待するというだけの単純なものではなく、弁栄によって提示された独特の念仏思想や世界観を心中で反芻しながら、それらを理屈として理解するのではなく、目の当たりに感得して深く体感する、まさに「三昧」の境地で弁栄思想そのものになってしまうような、深く個人的な念仏体験が実践されていることがわかった。
 このように、弁栄の不断念仏は、思索と実践が車の両輪のごとく連動して初めて実体をもつものであるから、弁栄を単なる不断念仏のカリスマ的人物と見るのは不適当で、まずは残されたテキストを通してその思想を考える必要がある。

三、弁栄の念仏思想の系譜(一)

現在入手できる弁栄の著作としては、財団法人光明修養会から刊行されている『宗祖の皮髄』『人生の帰趣』『無辺光』などがあり、特に田中木叉編『日本の光(弁栄上人伝)』(昭和一一年初刊)は、豊富な逸話と著作の引用を交えて、弁栄の生涯と思想の深化を編年で記述したもので、弁栄の全体像を知るための最も根本的な資料を言えよう。本稿でも弁栄の著述の引用はこれに依り、その頁数を記すこととする。
 また一般に参照が容易なのは、『浄土仏教の思想』第十四巻(一九九二年、講談社)に収められた河波昌氏による「山崎弁栄」であろう(以下『思想』と略称する)。本書は、弁栄の生涯と思想を偏り無く概説するもので、今後の研究の始発となるものである。
 ここでは、『日本の光』及び『思想』を通読して、筆者が感じた疑問や、考えるところをいささか記したいと思う。それは、弁栄の思想が何に影響されて形成されたかという点である。
 およそいかなる独創的な思想家といえども自分以前の思想と全く無関係に自己の思想を形成することは不可能である。とすれば、弁栄の思想も必ずそのよって来るところがあるに違いない。
 ところが、弁栄自身において既に、自分が誰の何から影響を受けた云々というような記述はあまり見られない。自身名前を挙げる先達としては、釈尊の他に、ほとんど唯一法然の名が語られるに過ぎない。しかも、既に指摘されるごとく、弁栄の法然理解は、その主著である『選択本願念仏集』を始めとする教学的著作の分析によるものではなく、法然作と伝承される釈教歌(仏教の教えを和歌に詠んだもの)によるものであり、著述の中に法然の思想を探るというよりも、自身の理想とする法然像を作り上げ、それを語り出しているという感がある。
 よって、弁栄の思想的系譜を明らかにするには、残された弁栄の言葉を読み込んでゆくしかない。以下はあくまでも筆者の考える弁栄の思想的系譜の一端である。
 弁栄はその思想の形成期に、鎌倉期時宗の一遍(一二三九~一二八九)の言葉から影響を受けている、と筆者は考えている。弁栄は明治十五年(一八八二)二十四歳の時、筑波山に二ヶ月間参篭し、「三昧発得(ざんまいほっとく)」したとされるが、その時の境地を示すものとして次の偈文が伝えられている(『日本の光』六〇頁)。

  弥陀身心遍法界 衆生念仏仏還念
  一心専念能所亡 果満覚王独了々

 一句目「阿弥陀の身心は法界に満ちている」とは善導『往生礼讃』中の一句をそのまま用いている。二句目「衆生が仏を念ずれば、仏もまた衆生を念ずる」とは、やはり善導『観経疏』の「衆生憶念仏者、仏亦憶念衆生」と全く同意である。衆生(我々)が仏を念じている時、仏もまた我々のこと念じているという考え方で、次の三句目と密接に関わる。  三句目「一心に専念すれば能所亡ぶ」の「能所」とは能機(働きかけるもの)と所機(働きかけられるもの)であり、例えば仏に手を合わせて何事かを祈る衆生は能帰であり、祈られる仏は所帰であると言える。一心に念仏する時、そうした衆生と仏との区別がなくなるというのである。
 こうした考え方は、一遍の言葉にしばしば見られるものである。

念仏とは、念仏即往生なり。南無とは能帰の心、阿弥陀仏とは所帰の行、心行相応する一念を往生といふ。(岩波文庫版『一遍上人語録』三九頁)
回向心とは、自力我執の時の諸善と、名号所具の諸善と一味和合するとき、能帰所帰一体と成て、南無阿弥陀仏とあらはるゝなり。(同語録七三頁)
我執の迷情をけづりて、能帰所帰一体にして、生死本無なるすがたを、六字の南無阿弥陀仏と成就せり(同語録八一頁)

 一遍は「南無阿弥陀仏」という「念仏」の中に、衆生と仏とが融合しており、彼我の区別はなくなると考えるのであるが、こうした念仏観は、所謂「絶対他力」思想の極まったものであり、これは一遍がその学統に連なる浄土宗西山流(法然の弟子証空に発する念仏門流)の念仏思想であり、更に詳しくみれば、九州において一遍と同時期に聖達について就学した深草義の顕意道教(一二三八~一三〇四)の念仏観と同じものであった。その点については日本の民芸運動の主唱者であり、念仏思想にも深く傾倒した柳宗悦の『南無阿弥陀仏』(岩波文庫所収)を参照されたい。
 弁栄は筑波山に籠もる前年、明治十四年の四月から十一月まで、浅草日輪寺の卍山実弁から『原人論』や『起信論』の講義を受けたとされるが(『日本の光』五二頁)、同寺は江戸期有数の時宗の学寮であり、ここで一遍の念仏思想を摂取した可能性が充分考え得る。
 よって、偈文の最後の四句目「果満覚王が独り了了と現れる」の「果満覚王」については、一遍の念仏観に忠実に解釈すれば、これは「南無阿弥陀仏」という名号そのものになる。しかし、恐らく弁栄の意図はそうではなく、「宇宙を包含する法界身なる阿弥陀仏」(『思想』二一〇頁)と解釈されているように、文字・声としての名号ではなく、やはり金色の阿弥陀仏の姿を感得したと考えたい。今回も出陳されている「三昧仏」と名付けられた仏画―説法印を結んだ阿弥陀如来の上半身が雲の上に大きく出現する図像―は、この時に弁栄が感得した図像であると思われる。
 弁栄は、一遍の念仏観を知って臨んだ筑波山参篭において、自己と仏が一体となるような法悦を味わったと思われるが、そこにはただぽっかりと名号のみが残されるというような、一遍の徹底した彼我の消滅感覚の方向へは進まず、自己をも包括する大きな真理としての阿弥陀如来顕現のイメージを心中に抱いたようである。この宗教体験によって、弁栄は知行兼ね備えた真の宗教者として活動を開始することになる。

四、弁栄の念仏思想の系譜(二)

 筑波山での参篭を弁栄の一度目の「廻心(えしん)」(重要な宗教体験による思想の変化)とするならば、二度目の「廻心」は、明治三十三年(一九〇〇)四二歳のおり、愛知県巡錫中に肺炎を患い、新川法城寺(現愛知県碧南市)で療養した時であった、と筆者は考える。
 筑波山以来およそ二十年の星霜中、弁栄は寺院建立や学校建設のための資金を勧募すべく各地を精力的に巡錫し、また三十七歳の明治二十八年一月、仏蹟参拝のために印度を訪れ、ブダガヤに参詣したことは、弁栄の釈迦信仰に少なからぬ影響を与えたはずである。
 そうした経験を蓄積し、日夜、化他行に明け暮れる弁栄は、数ヶ月に及んだという療養生活も、むしろこれを奇貨として、新たな法門を思索する貴重な時間と考えたようである。この時、弁栄が構想した法門こそ、弁栄教学の根本となる「光明主義」であった。
 阿弥陀如来には無量寿仏(極まりなき命の仏)と無量光仏(極まりなき光の仏)という二つの異名がある。この内の後者、極まりなき光について、法然が定めた専修念仏の依拠経典である「浄土三部経」の一つ『無量寿経』(通称「大経」)には、無量寿仏の放つ光明が諸仏に優れていることを述べ、その光はあらゆる世界を照らすと述べる、所謂「光明歎徳章」と従来称されてきた章段がある(後に弁栄はこの段を独立させ小経本としている。展示資料)。
 この章段には、無量寿仏の異名として、その放つ光明に由来する、無量光仏以下超日月光仏に至る十二の名称が挙げられている。さらに、この光明の働きとして、これに照らされる衆生は、三毒の煩悩が消滅し、心と体が柔らかくなり、喜びの気持ちで体が踊りはね、善なる心が生じるという。また、三悪道に堕した人々もこの光明を見れば安息を得て死して後皆解脱すると記されている。
 弁栄はまさにこの章段に着目して、阿弥陀如来の光明(弁栄はこれを「霊光」ともいう)に照らされた人々の身心が「霊化」され、清らかになり、各自の「霊性」が開発(かいほつ)されて「相互真実親愛」の社会が実現する、といった法門(光明主義)を構築した。
 弁栄が特にこの時期「十二光」に注目して取り上げるに至ったその具体的な経緯については、弁栄自身は特定の理由を明らかにはしていないようである。この『無量寿経』「光明歎徳章」は、古来諸家の注目するところでもあるから、智徳兼備の弁栄が敢えてこれを重視したとて、ことさら異とするには及ばないのであるが、しかし、弁栄が十二光を取り上げた直接的な思想背景として、『思想』には指摘されていない二つの要因を提起したいと思う。
 一つは、「十二光」については、やはり時宗の一遍が既に注目していたということである。各地を遊行して念仏を勧める一遍は、寺に定住する僧侶と違い、その持ち物も必要最小限に限らなければならなかった。彼は弟子の持つ道具を十二品に定め、引入(飯を盛る椀鉢)に始まり頭巾に至る十二品に、「光明歎徳章」の十二光をそれぞれ配当し、これを「道具秘釈」と名付け、その末尾に次のような言葉を記している(岩波文庫版『一遍上人語録』二八頁)。

本願の名号の中に、衆生の信徳あり。衆生の信心の上に、十二光の徳を顕はす。他力不思議にして、凡夫は思量し難し。仰いで弥陀の名を唱へて、十二光の益を蒙るべし。

 末尾の「仰いで念仏し十二光の利益に預かれ」とは、まさに先に挙げた弁栄の光明主義に他ならない。弁栄が十二光に注目するにあたっては、若き日、浅草日輪寺で接したであろうところの、一遍の言葉と思想の影響が脈々と響いているのではないかと思われる。もう一つ、弁栄が十二光を取り上げた要因として、『旧約聖書』冒頭の次の著名な言葉が挙げられてよいだろう。

  神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(『創世記』一章三節、新共同訳)

 弁栄の新川法城寺における二度目の「廻心」、即ち「光明主義」への転換の最大の眼目は、伝統的浄土仏教を如何にして世界宗教へと普遍化させるかという点にあった、と筆者は考える。
 明治維新以後およそ半世紀が経過し、西欧の文化が怒濤のごとく日本に流入する中で、宗教者がまず直面したのは、緻密に構築された西洋の科学思想とキリスト教思想に対して、どのように対応するかということであった。
 仏教者の多くはそれら外来思想に耳を塞ぎ、旧態依然たる法務活動を続けていたが、心あるものは、それぞれの立場から、西洋思想と対峙し、何らかの形でそれを日本の仏教に応用しようとした。或者は文献学に、或者は哲学に、或者は自然科学に、それぞれの立脚点を求め、そこから仏教を照射して隠された思想を再発見し、新たな価値を創出しようとした。
 合理精神の発露でありすべてを明らかにせねば気が済まない科学思想にとって、残された最大の不可思議は、「宇宙」であろう。唯一の創造者の存在を絶対の牙城とするキリスト教にとって、決して譲れないのは一神教的「神」の存在であろう。弁栄にとっての課題は、従来の浄土教思想を使って、これら厳然と屹立する西洋の「宇宙」と「神」を、どのようにして大乗仏教の枠内に包括するのかという点にあった。
 「極楽浄土」と「天国」との気分的近似などから、表面的にはその類似性がしばしば言及される浄土教とキリスト教であるが、教義からたぐってゆけば、およそ融合できるものではないことが明白である。
 そこで弁栄が着目したのが、前述のごとく『旧約聖書』の冒頭から述べられる「光」であった。神の存在が光として表現されるものであれば、それは、そのまま阿弥陀如来の十二の光明に重ね合わせて理解することができる。「光」を回路として唯一絶対の「神」と永遠の法身仏たる阿弥陀如来とが一体となる。
 さらに、この唯一の「神」の存在はキリスト教においては絶対の真理であり、キリスト教徒にとっては容易に「宇宙」の真理に転化しうる存在でもある。一方、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたり時空を超えて遍在する法身仏たる阿弥陀如来もまた、ダルマ(真理の法)が顕現したものであるから、やはりこれも「宇宙」の真理と言い換えることができる。  こうして、「光」や「真理」を媒体とした、神=宇宙=阿弥陀如来というアナロジーが成立する。弁栄はその書簡の中で、「宇宙の真理は悉く十二光によりて示せり」(『思想』二三六頁)と言っている。
 このように、「十二光」への注目は、念仏信仰を世界宗教へと転換させるための重要な要諦であって、その萌芽が新川法城寺での療養中に見られたことは興味深い。『日本の光』(昭和一一年)には、この時の滞在について次のように述べている。

この時に心月一層の輝きを増し、いかにせば多年心中証得の如来光明を時機相応の法門に建立して、広く一切衆生を済度せんかとの「五劫思惟」の境界でもあったろう。

 この「如来光明を時機相応の法門に建立」する思考のプロセスこそ、上記のもののごとくであったろうと筆者は推測している。
 今回出陳される資料は、すべてこの法城寺(碧南市天王町)に残された弁栄の多数の遺墨の一部であり、弁栄の大きな思想的転換となった光明主義の確立へ向けての苦闘の実態を如実に示すものが多い。例えば、資料番号4の「一神教、汎神教」に見られる「汎神教的一神教」といった、それ自体矛盾する用語の創作からは、弁栄苦心の思索の跡が生々しくうかがえるし、資料番号11の「十二光図」には十二光の特性が緻密に記されており、この段階で既に十二光思想が完成の域に達していたであろうことを示している。

五、弁栄の「神秘主義」―霊性と霊光と―

 弁栄の言葉には、「霊」を使ったものが甚だ多い。例えば資料番号8「ここから闇夜の」の中から選んでみると、たちどころに「霊化」「霊光」「心霊」「霊知」「霊能」などの言葉が出てくる。また、今回出陳の資料には使われていないようだが、「霊性」「霊我」「霊界」などという言葉も頻りに使用する。これぐらい「霊」を好んで口にする仏教者は珍しく、やはりそのよって来るところが気になる。
 「光明主義」確立以降の弁栄の言説には、キリスト教的用語と思われる言葉も目立って使われる。「神聖」「正義」(以上資料1)、「恩寵」「讃頌」(以上資料8)などは、伝統仏教ではまず使われない言葉で、前二者は聖書の日本語訳にもあることから、キリスト教的用語と考えてよいだろう。「天地万物の源なる真理の父よ」(資料9)というような阿弥陀如来に対する呼び掛けの言い回しも、やはり伝統仏教では見られないもので、これも「天にまします我らが神よ」というようなキリスト教的言葉と類似している。
 よって、弁栄が多用する霊に関する言葉についても、キリスト教と何らかのつながりがあるのではないかとの予想のもとに調べてみたところ、驚いたことに、前記した「霊」を含む熟語は一つも聖書(新共同訳・口語訳ともに)に使われていないことがわかった。
 さらに手元の『日本キリスト教大事典』(一九八八年、教文館)を見ても、前記「霊」の熟語は全く立項されていない。キリスト教には「聖霊」という重要な事象があるが、しかし、それ以外で特に「霊」を強調するような面は見られず、むしろ、イエズス会創始者イグナチウス・ロヨラの著作が『霊操』と名付けられているように、個々の信仰者による神秘体験について「霊」を使った表現が使われているようである。
 それなら、弁栄の使う「霊」の熟語の典拠は何か。例えば「霊性」なる言葉は、後に鈴木大拙が『日本的霊性』と銘打って使用したことでも知られるが、その典拠は特に明らかになっていない。今回本稿を草するにあたって調べたところ、「霊性」は実は仏典に使用された言葉であることがわかった。
 九世紀前半中国の宗密による『原人論』には、「謂初唯一誠霊性。不生不滅。不増不減。不変不易。衆生無始迷睡不自覚知。由隠覆故名如来蔵。」とあり(大正蔵四五巻七一〇頁中段)、「霊性」を衆生の仏性である「如来蔵」と同義で用いており、これは弁栄の使う「霊性」の語義とほぼ同一である。
 『原人論』は明治期以降、一種の仏教入門書としても利用されたようで、各種注釈書も多数刊行されており、弁栄自身も二十三歳の時、浅草日輪寺で受講していることから(『思想』二〇五頁)、弁栄の使う「霊性」は『原人論』に由来するものと考えてよいだろう。
 「霊光」という言葉も、実はキリスト教とは特に関係なく、意外にも『夢想国師語録』『鹽山拔隊和尚語録』『絶海和尚語録』といった、日本中世の禅宗の語録に頻出する言葉なのである。弁栄は阿弥陀如来の霊光に照らされることにより衆生の隠された霊性が発現すると考えていたが、実はこの中に弁栄流の釈迦信仰が隠されていると筆者は考える。
 『大般涅槃経』に「一切衆生悉有仏性」とあるように、大乗仏教においては、すべての人々の中に、仏に成る種(仏種)が蔵されていると考える(如来蔵)。この種が様々な修行を通して悟り(菩提)を求める過程で発芽(開発)し、人は仏と成る。所謂「念ずれば花開く」とはこのことで、逆に念じなければ、花は開かないのである。
 一般の大乗仏教では、成仏するための修行として、菩薩の六波羅蜜など、様々な行為があるが、弁栄の光明主義では、「大宇宙の真理」(阿弥陀如来)の「霊光」(光明)に照らされることによって、各自の「霊性」(仏性)が開発する。その「霊光」に照らされるための手段が、念仏により三昧の境地に入ることなのである。そして「霊光」に照らされ本来の「霊我」に目覚めた行者は、宇宙の真理と一体になって、この世に浄土を実現すべく努力するのである。
 つまり、衆生の持つ仏性(弁栄の所謂「霊性」)の覚醒を目指すという点では、一般の大乗経典の所説と同じで、釈迦如来の教え(釈迦教)ということになる。弁栄の独特なる点は、他の経典が説くような様々な修行は取り上げず、不断念仏による念仏三昧によって感得された阿弥陀如来の光明(弁栄の所謂「霊光」)により仏性が開発されるというもので、これは法然以来の専修念仏信仰には見られない、釈迦教と阿弥陀の教え(弥陀教)を巧みに融合したものである。
 弁栄の思想においては、あくまでも個々人が念仏を求道的に実践し、阿弥陀如来の光明の感得をはかるといった、机上の理屈や慣習の反復とは全く無縁の、行者個人のいわば「神秘体験」が最重要視されるのであり、お他力によって、誰もが阿弥陀如来の光明に照らされているから安心せよといった、従来から続く惰性的で無気力なルーチンワークとしての他力念仏信仰とは一線を画するために、あえて「霊」という冥顕の境界を暗示するような言葉を用いて、従来の念仏思想から自己の思想を差別化したものと思われる。

六、おわりに―弁栄という人―

 弁栄は、何よりもその生涯を通して、栄耀栄華・私利私欲とは無縁の、高潔なる念仏行者であったが故に、人々からの熱い信仰を勝ちえた、と筆者は考える。
 しかし、人々を魅了したのは、弁栄が単に念仏の実践者であったというだけではない。彼はその念仏行を通して感得した宗教的真実を、ある時は生き生きとした言葉で語り記し、ある時は明確な図像を描いて人々に示した。  それによって念仏者は、念仏行を通して積極的に目指すべき境地を明確に知り、はっきりとした目標を持って念仏行にいそしむことができた。それは、死して後、往生を待つといった、「人任せで無責任」という意味での「他力本願」的で消極的な念仏信仰とは全く様相を異にする念仏であった。
 一方で弁栄は、積極的に西洋の宗教や哲学思想を咀嚼して、浄土念仏信仰という東アジアの地方信仰を汎世界的宗教へと普遍化させるべく思索を深めて大系化し、速やかに実践していった。残された遺墨の文章を見ると、各地を巡る多忙な念仏生活の中で、いったいどこにその時間があったのか、と疑いたくなるほどに、キリスト教関係、哲学関係、社会学関係の本を精力的に読破していた様子がうかがえる。
 宇宙の真理の霊光により自己の霊性が目覚め、霊能が発揮されるといったビジョンは、従来の浄土念仏信仰とは、明らかに面目を一新したものであり、むしろ西洋流の高い教育を受けた人師にとって魅力的であった筈である。
 しかしそれは諸刃の剣でもあった。世界宗教を目指して宗教の普遍化を図れば図るほど、「阿弥陀仏」や「浄土」といった、これまでの念仏信仰の基盤を成していた特定の用語が足手まといになる。
 資料9の結婚の言葉などは、念仏信仰を示すような言葉は全く使われておらず、歓喜光などを仏教用語と知らなければ、およそ仏教僧による文章とは思えないほどである。
 しかし、従来の用語を全く廃するということは、その用語に表象される思想をも廃するということに直結するから、当然、自身の所属する宗派の公式見解たる「教義」に相反することとなる。
 光明主義ではこの現世において霊性を発現し、この娑婆世界を、その本来の姿である浄土に変革するというものであるから、娑婆世界から極楽浄土への往生を標榜する伝統的浄土思想とははっきり異なる(ただし、一遍などの念仏観は、念仏即往生であるから、死後にどこか遠くの浄土へ往くというものではなく、この点、やはり弁栄の思想と類似している)。
 事実、大正三年の「如来光明会趣意書」では、「往生」や「浄土」という言葉は全く見られず、かわりに、「現世を通じて」「現在を通じて」と、光明主義が「現在」において実現されるべきものであることを強調しており、明らかに浄土宗の「教義」とは異なっている。
 ここに弁栄にとっての大きなジレンマがあったと思われるのだが、結果的には彼はそうした矛盾などには全く拘泥していなかったかのごとく、自己の普遍化した仏教思想をやすやすと語りつづけたように見受けられる。筆者はそこに、浄土念仏を「世界宗教」へと脱皮させようとした弁栄の確信を見る。
 念仏三昧を繰り返していた弁栄は、日常生活の中でも、不思議な内証体験があったようだが(『日本の光』二一〇頁)、果たして弁栄という人は、所謂、「霊能者」のごとき人物であったのか。今回出展されている弁栄の仏画を見ると、手本(先行作例)を忠実に丁寧に写す姿勢が顕著であり、自己流の表現で書きとばしたり、あえてデフォルメするといった姿勢は全く見られない。
 そうした几帳面な画風や、米粒に文字を書いたり、両手に筆を持って左右同時に違う和歌を書いたというような作品を見ると、「霊的」というよりはむしろ「緻密」で「器用」な人柄が、筆者には浮かんでくるのである。
 彼の思想もまた、先行する思想や外来の新しい思想をよく学習し、それらを緻密に一体化して再構成したものであった。即ち、大乗仏典での仏性開発の思想、キリスト教における「神」と「光」の関係、『無量寿経』に説く阿弥陀如来の十二光とそれを取り上げた一遍の思想など。
 別時念仏を繰り返すという点では、彼が所属する浄土宗―法然の弟子聖光房弁長(鎮西上人)より発し、念仏を「行」としてとらえる側面(起行派)が強い浄土宗鎮西流―の教えと相応し、「霊性」が発現した後は、大宇宙の真理たる阿弥陀如来と自身が一体になるという点では、「絶対他力」の極まった一遍の思想―それは念仏を行って救われるのではなく既に救われていることを念仏により阿弥陀に感謝する(安心派)という浄土宗西山流や親鸞門流の教え―を取り込んでいる。  まことに興味深いのは、我々は既に救われている(往生は決定(けつじょう)している)から、どんな悪行を積み重ねても問題ない(悪無碍、本願ぼこり)と考えたり、少しでも衆生が努力することは「自力」根性が残っているから救われない―例えば、大声で念仏するのはよくないとか、肉食妻帯の僧侶が髪を剃るのは偽善的自力行であるというような、現在でも一部でとなえられている主張、それらは無気力・無自覚・無反省な消極的念仏へと繋がり、最終的には念仏などは結局無用なものであるという認識に人を導くであろう―などの、「絶対他力」思想がしばしば堕しやすい陥穽を、「絶対他力」の極まったものをまるごと取り込むことによって逆に克服してしまうという―阿弥陀との一体化は念仏三昧を通して実現される―なんとも二律背反的な離れ業を、弁栄が光明主義によって達成している点である。
 弁栄の光明主義は、釈迦教と弥陀教、起行派と安心派といった念仏をめぐる対立義(実は本来表裏一体のものなのだが)を新たに融合止揚する思想であったと言えよう。
 後に鈴木大拙は『日本的霊性』(昭和十九年)において、近世親鸞門流の素朴な市井の念仏者(「妙好人」と呼ばれる)の言葉の中に、仏と我という彼我の対立を超越した念仏思想―本稿でいう「絶対他力」の極まったもの―を見いだし、これこそが「日本的霊性」であると大きく宣揚した。妙好人の歌とは例えば次のようなものである。

なむ仏は、さいち(才一)が仏で、さいちなり。さいちがさとりを開く、なむぶつ。これをもろ(貰う)たが、なむあみだぶつ(岩波文庫版『日本的霊性』二三二頁)。

 この妙好人才一の歌について大拙は、「彼の歌は(中略)、『安心決定鈔』か『一遍上人語録』でも読むようである」と評している(同書二三五頁)。『安心決定鈔』とは親鸞門流蓮如の愛読書として知られ、今日では浄土宗西山流の著述であることが明らかになっている。『一遍上人語録』の思想については、先に掲げたごとくである。
 大拙が「日本的霊性」であると精選した思想は、弁栄が浅草日輪寺で接した一遍の思想からくみ取った「絶対他力」思想の極まったものと同じであった。一方、両者とも「霊性」という言葉を使いながら、大拙は「絶対他力」思想を意図し、弁栄は従来の「仏性」「如来蔵」に代替する言葉として使用している点、全く異なっている。
 今にして思えば、弁栄は人間の手に念仏を取り戻したのであった。「絶対他力」と言えば聞こえはいいが、その実態は、念仏もせず、経典も読まず、仏教を学ぼうともしない僧俗を増やしたという本末転倒した側面もある。  弁栄は、主体的な念仏の持つ価値を人々に気付かせ、念仏のちから、「念仏力」を実感させるべく、別時念仏の指導に各地を奔走したのである。社会をよりよきものにするためには個々人の主体的覚醒しかないのだという弁栄の強い思いを感じる。
 弁栄は六十歳の時、時宗本山である当麻無量光寺に住職として入山した以外は、浄土宗寺院に住持したことはなく、各地の熱烈なる僧俗の支持者のもとを巡っては、念仏三昧会を指導して六十二歳の生涯を終えた。生涯唯一の住山が時宗本山であったことは、本稿で取り上げた弁栄と一遍との思想的繋がりを考えれば、単なる偶然ではない、必然的で意義深い出来事であった。

(湯谷祐三)

弁栄上人と法城寺

『日本のひかり』によりますと、弁栄上人が愛知県を最初に尋ねられたのは、三河出身の帰依者、東京北区岩淵の正光寺住職様の御案内随行により明治28年11月に南三河吉良の徳雲寺を巡錫されたのが始めての御縁であった様です。徳雲寺は日本のマザーテレサと言われた布施の行者颯田本真尼のお寺であり、本真尼は当時51歳頃であったと思われますが、三昧発得された高徳の尼僧様の評判を聞き御案内されたのかも知れません。又それは、日本人としては当時珍しかったインド参拝から戻られた弁栄上人が、意を新たに布教の足を拡げられ始めた矢先の事でもありました。その後全国行脚をされるようになると共に、その中の主な布教先の一つとして三河を度々訪ねられるようになります。

徳雲寺より北西に12㎞程向かった碧南新川村に醸造業を営む素封家石川家がありました、その第八代当主石川市郎氏は(現在の当主は十一代目) 法城寺開基の仏法帰依厚き篤信家でありました。私財を投じ自宅に説教所を設けられましたが、ただそれは弁栄上人が三河の地を訪れる前年の明治27年の事でありますので、市郎氏は弁栄上人にそれ以前三河以外の場所で逢われたのか、或は弁栄上人の御噂を聞くに留まってはいたがその高徳な聖者をお招きすべく説教所を建立されたのか、或は又それとは全く別にただ石川家の菩提を弔う為に寺院を設けその後弁栄上人に出逢われて開山になって頂いたのか、実際の所は定かではありません、ただ石川家当主が篤信者で弁栄上人に深く帰依されていた事に間違いないはありません。有徳の尼僧二人を招き、明治28年に浄土宗説教所としての允許を得ます。その後碧南伏見屋にあった無住寺院の名称を譲り受け明治32年法城寺と改称し、弁栄上人をお迎えし勧請開山すべく、願書を認め切々と熱き想いを語られます。
弁栄上人はそれに対しその場で
「清居士、深く仏を祟び護法の心甚だ篤し、一宇を創建して三宝の隆盛を願う其の志を感ずるに勝ひざるなり、貧道を請する書を以てす、その厚敦の志に報うるに辞する道なし、不敏を顧みずその好意に順うのみ、唯願わくは粉骨砕身仏祖に報ぜん」
と心よく開山をお受け下さいました。ここに明治32年2月22日弁栄上人開山法城寺が誕生したのであります。

尼僧育成の為の道場として法城寺が創設されましたが(私は第六世になりますがそれまでは代々尼僧様のお寺でした)、元々三河と云う土地は剃髪の尼僧様の多い地域であります。庵主様方にはお茶・お花・お裁縫等の資格を持った方が多く、又月詣りなどで信徒の方々の御家に深く関わりを持ち信頼されて居られましたので婦女子の教育には非常に影響力がありました。そこで弁栄上人は本物の念仏者として尼僧を育成する事が出来れば、如来様の御信心が果てしなく伝播していくとお考えになられたのでしょう。北三河では徳本行者ゆかりの岡崎荒井山九品院、松平家菩提寺大樹寺、お弟子の角岡界倫上人半城土願行寺など大寺に滞在されることも多かったようですが、尼僧寺院の多い南三河では小牧光明庵、荻原神宮寺、吉田徳雲寺、西尾法厳尼寺、そして開山の新川法城寺などを幾度も訪れそこを拠点とし、在家ばかりでなく尼僧への講義も行い、又日曜学校等を開いてオルガン・手風琴等で仏教唱歌を合唱し子供たちを楽しく導きながらあらゆる所に仏様の種を蒔いて行かれました。

  また明治33年には三河巡錫中に肋膜肺炎にかかられ、法城寺にて長く静養されます。その節の読書・念仏の中、原稿・書画等も多く描かれました(今回その中から何点か出品させて頂いております)、快復はされたものの重い病であった為に死を覚悟され、松戸へ帰られてからも棺桶端坐念仏され一段と心境が深まってゆかれました、それが後の新しい法門開闡へと繋がる転機となり、そういう意味でも重要な役目のあったお寺であるのかも知れません。
 不思議な御縁で、其のお寺の住職をお預かりして早六年になりました。

今から二年程前になりますでしょうか、弁栄上人から御手紙を頂戴いたしました。

 それは弁栄上人が石川喜太郎さんと云う方にお出しになられた御手紙です、喜太郎さんは石川市郎氏の御子息で、石川家の九代目当主にあたる方です、しかし病弱で明治四十四年十二月に四十四歳の若さでお父様より先にお亡くなりになられました、弁栄上人も喜太郎さんの事を随分気に掛けて居られたようで励ましの御手紙も何通か残っております。その中の一通で額になったものが押入の中に入っておりましたのを偶然発見致しました。これは勿論弁栄上人が喜太郎さんに書かれた御手紙ではありますが、どうしても私自身に語りかけて下さった御言葉のように思えてならず御遺訓として頂いております。今回この御手紙も出品させて頂いておりますが、最後にご紹介して味わってみたいと思います。

石川喜太郎宛書簡

弁栄上人 書状

(原文)

古人の歌に

後乃世もこの世も共に
なむあみだ 仏まかせ
の身こそ安け禮
南無と此我を投じて
阿みだ仏に帰しぬればもはや
生死の境を越て
無量寿の我に成りしなり
みだの真理を證りうる時は
既に生死の関門を超絶して
永恒不滅の徳を得べく候
石川君よ 死ぬべき我を
我と執着せずして
無量寿の死なぬ我を
我と定め給へよ
実にいつも無量寿であり
ますよ どこでも無量光
躰内ではありませぬか
十方法界みだ躰内の我なれば
去るに処なく来るに方なし
みだ躰内の我には往も還るも
ありませぬ 本来みだの
中であるもの
ただ精神だに
なむあみだ仏となりさへすれ
ば 即ち極楽でありますよ
如来光明内裡に居ながら
自ら知らずして居るもなさけなし
なむとは 小さな我がなくなりしこと
阿みだとは 大きな我と成り
しこと  ありがたし
死ぬことは有りませぬよ
ほんに
十六日夜 弁栄
石川喜太郎君

(意訳)

無能上人の御歌に

後の世もこの世も共に
南無阿弥陀 仏まかせの身こそ安けれ
とあります
大ミオヤよ有難う御座いますと
命の親様に只々感謝を捧げてゆくと
もはや生死の境を越えて
量り無きいのちの我に帰ってゆきます
いのちの親様の真実に気付き得る時
既に生死の関門を超絶して
永恒不滅の徳を得るのです
石川君よ 死ぬべき小さな我を
我と執着せずして
量り無き死なぬいのちのおかげ様を
仰いでゆきなさい
実に何時でも量り無き慈悲の命であり、
どこでも量り無き光ではありませぬか、
宇宙の全てそのままが
あなたの今のそのままが
大ミオヤのお慈悲の光の中にある
その光の中の我の外に
何処か別の場所に
往くのでも還るのでもありません
来が光の中であるもの
精神さえ
大ミオヤへの感謝に満ち溢れれば
即ちそのまま極楽でありますよ、
オヤ様のお慈悲の光りを存分に浴び乍ら
自ら知らずに居る事は最も親不孝な事です
南無 有難う御座います、
と小さな我が無くなり
阿弥陀仏 いのちのオヤ様、おかげ様、
と大きな我に帰ってゆく
有り難いことです
死ぬことはありませんよ
本当に
十六日夜 弁栄
石川喜太郎君

(石川乗願)

展覧会

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展覧会スケジュール

特別展 山崎弁栄 -光明主義の系譜-
跡見花蹊 熊野宗純 佐々木為興 笹本戒浄 田中木叉 土屋観道 中川察道 山本空外(五十音順)
平成25年12月8日~12月27日(休館日21日、22日)
特別展 柳宗悦 ココロウタ、ココロウタ
平成26年3月4日~4月18日(休館日3月16日、22日、29日、30日、4月5日、6日、12日、13日)

過去の展覧会

山崎弁栄記念館開館記念特別展 山崎弁栄 -彼方での対話、彼方なる世界-

平成25年8月10日~8月30日

山崎弁栄展 -宗教の彼方、新たなる地平- 詳しくはこちら »

平成22年10月30日(土)~11月14日(日)

第一空間
山崎弁栄の書画と霊性
エクリチュールとしての書、スピリチュアリティの表現としての書画
会場 長良川画廊
第二空間
山崎弁栄の人と思想
会場 長良川画廊
第三空間
禅と浄土
宗教の彼方・新たなる地平
会場 久松真一記念館

トピックス、イベント情報

トピックス

若松英輔氏旧蔵山崎弁栄直筆作品(41点)の売却について。

山崎弁栄図録ご紹介

山崎弁栄図録

山崎弁栄展図録

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《新年特別開館のご案内》

山崎弁栄記念館
平成29年1月1日~4日まで特別開館いたします。
午前11時~午後4時30分
※5日~9日は事前予約にて営業いたします。

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一般 300円、大学生以下無料
アクセス
岐阜バス/JR岐阜駅12、13番乗り場より全線、メディアコスモス鶯谷高校口下車徒歩1分 JR岐阜駅より所要時間約15分
記念館裏に無料駐車場有り

山崎弁栄遺墨作品の鑑定

山崎弁栄遺墨作品の鑑定と真筆証明書(箱書きまたは鑑定書)を発行します。

鑑定人
山崎弁栄鑑定委員会
鑑定料
10,000円
真筆証明書発行料
15,000円
お申し込み
受付窓口
山崎弁栄記念館事務局(長良川画廊内)
〒500-8073 岐阜市泉町16 山本ビル2階
Tel 058-263-4322
所要期間
二週間前後

※作品の取次は、郵送でも行います。